第307回「限界効用逓減の法則(2024年11月16日)
第307回「限界効用逓減の法則」(2024年11月16日)
こども達を多くの大会に出場させることは間違いではないが、計画立てて行わないと、正しいとは言えない。なぜ正しくないのか。
まず体を酷使することによる怪我の恐れである。疲労回復をせずに行えば疲労は蓄積し疲労骨折につながる。以前にも書いたが、大会は「たかが2kmだ」と思うだろうが、「されど2km」なのである。真剣勝負の2kmを毎週走るのは疲れると思う。2kmでも大会は普段の1日の練習量に相当する。
疲労骨折は、ごく小さな外力の繰り返しにより、骨に慢性的にストレスが加わり、ついには骨に微細骨折を生じた状態をいう。ランニングの繰り返し、走り過ぎなどにより生じ、骨にヒビのような状態を作り、時には完全骨折にいたることもある。脛骨(すねの太い骨)、中足骨(足の甲の骨)によく生じる怪我である(日本陸連「疲労骨折予防10か条」より)。
現在中1で注目されているバンビーニOBのT男も同じ状況になったことがある。もっと早く気づけば小学生のうちから注目された選手となっていただろう。深く反省している。
もうひとつは精神面の問題である。
毎週のように大会に出ることで、こどもは自信がつき上位に入ることで喜んでいると親は思っているのだが、本当にこどもは満足しているのだろうか。
多くの大会に出れば、上位に入ることに対する熱意や達成感が段々薄れてくる。順位が下がると記録が低迷する。仕舞には大会に対するアレルギーが生じてくる。そして最後は陸上競技を去ることになる。これまで、Y子を筆頭にそのようなこども達を何人見てきたことだろうか。
小学生は自ら大会を選ぶことも申し込むことも金銭面的な問題、移動手段からできない。すべて親が段取りするのである。「上位に入賞すれば、親が喜ぶ」姿を見てこどもはさらに頑張ってしまう。親がこどものために大会に申し込みをしていると思っているだろうが、逆だ。心身の面で疲れていても、こどもは喜ぶ親の顔を見たさに大会に出ているのだ。
ミクロ経済学に「限界効用逓減(げんかいこうようていげん)の法則」というものがある。
暑い外で1日中働いた後に飲む1杯目のビールの満足度は非常に高いものだが、2杯目、3杯目、と追加するうちに、だんだんとその満足度は減っていく。
それをグラフで表現するとつぎのようになる。最初の1単位(ビール1杯)の満足度は大きく、追加するごとに満足度が減っていくことがわかる。
このように、限界効用逓減の法則とは、「同じ刺激であっても、受け取る回数が増えていくと1回あたりの満足度は段々小さくなっていく」ということを意味する。
(「限界」とは1回あたりの大きさ、「効用」とは満足度、「逓減」とはだんだん減っていくという意味と考えていい。)
私のような酒好きの者なら1杯目のビールは700円出しても飲みたいが、ビールを3杯飲んだ後は300円でも「もういいかな」と思ってしまう。次の注文は500円の酎ハイになる。
つまり人の満足度を最大限にしようとすれば、同じことを続けても難しく、変化や新鮮さが必要になるという事だ。毎週のように大会に出るのではなく、たまには紅葉狩りや実家に帰るなどこどもに飽きさせない工夫が必要だ。のんびり1日家にいるのも一つのアイデアだ。目指す大会を決めてそれに向かっていく癖(調整や動機付け)をつけないと大事な大会で失敗することになる。こどもから「大会に出たいよ」と言わせるくらい絞ってもいいのではないか。
「これを続けていても満足度は最初ほどではない」ということを知っているのと知らないのとでは、行動に大きな違いが生まれる。こどものトロフィーの数に満足し、表彰式で自分の苗字を呼ばれ、知らない人から声をかけられる。このような快感に浸る親の限界効用は、困ったことに逓増する。
第306回「深刻に悩むな、真剣に考えろ、そして何も考えるな」(2024年11月10日)
バンビーニには悩んだり神経質になったりするこどもがいる。小学生は悩むことはないと思っていたが、ここ2、3年でそういうこどもに出会った。バンビーニは強化指定という目標があり、この記録をクリアすべく、日々努力している。周りの期待から段々重荷になってくるこどもがいるのかもしれない。
いい加減に生きていたら、人生は楽しくない。真剣に人生と向き合うことは大切だけど、深刻になることはない。
私の経験から言うと深刻に悩むこどもには2つのタイプがいる。
完璧を求める子(A子)と自信のない子(B子)である。
完璧主義で真面目な子は、理想が高く「こうあるべきだ」といった固定概念が強いため考え込みやすい傾向がある。0か100かで物事を判断するため許容できる範囲が狭く、小さなミスやできないことなど他の人は意識しないことにも気が向いてしまいストレスを感じてしまう。また、理想や目標が高いほど、「なぜうまくいかないのだろう」「もっと頑張らないといけない」などと現実とのギャップに悩む。
逆に自分に自信がない子は、物事を悲観的に捉えやすくネガティブ思考に陥りやすい傾向がある。自分に自信がないと、人から褒められても素直に受け入れられず疑心暗鬼になるなど、常に不安を抱えていることが少なくない。
B子は「体格的にもスピード的にも他のこどもより優れているのだから、このまま練習を続ければ指定選手になれる」と言っても信用していない。コーチの思い込みだとし、「どうせ自分なんて」など、自分を責めるような考えが続き、少しでも体のどこかが痛いとますます気分が落ち込み、負のループから抜け出せなくなる。指定を取れなかった姉を身近で見てきたから、ますます自分をネガティブに考えてしまう。
B子はさらに自分の思いや悩みを決して言わない。怒ってもなだめても絶対に口を割らない。だから、いろいろ対処療法はできても根本治療ができない。
この2つのタイプのこどもは、頭の中をネガティブな思考がぐるぐると巡り、落ち込んだり「また同じことが起きたらどうしよう」と不安になる。自分でコントロールできないことを延々と悩み続けてしまうため、不安感を増長させ集中力や注意力の低下などをもたらす。
大会が始まる前に必ず涙目になってしまうのが、A子である。皆は気を使って話しかけない。私はいつものように「今日はベストそれも800m2分33秒を切ろう」と発破をかけるが、これが完璧主義のA子には逆にプレッシャーになる。
じゃ、これまで一生懸命練習をしてきたのに、大会当日何も言わず腫れ物に触るように扱えと言うのか?嫌だ!そんなの絶対嫌だ!コーチとして大会当日選手を鼓舞してはいけないのか。大谷が満塁で打席に入った時球場はシーンとすだろうか。私は「お~お~たに!」と言ってしまう。大谷ならファンの声援はプレッシャーではなく、心の焚火に加える薪となる。
A子に言った。「悪いけど君のことを無視できない。これからもレース前にアドバイスをする。練習を見る限り実力NO1なのだ。だから最初から飛ばして記録を狙え!君の涙はもう心配しないことにした。レース前のルーティンとみなす」
ただB子はこれ以上追い込むのは忍びない。記録を破る実力はついているのに精神面がその力をはぎ取ってしまうからだ。しかも5年生から6年生に1学年上がると指定記録は大幅に上がる。今年がダメなら来年頑張ろうと言うのは、記録が変わらないなら正しい。常に女子600mが1分58秒00なら・・・これが6年になると1分52秒00になる。B子にとって過酷なタイムだ。「どうせ自分は」の気持ちが石に刻むように心に刻まれてしまえば、今後の人生に負の思いを残してしまう。楽しいはずの陸上競技が二度と思い出したくないものになってしまう。もう強化指定の目標から開放してやってもいいのかなとの思いがよぎる。
2人に共通の解決策は「深刻に悩むのではなく、真剣に考えなさい」ということだ。練習の時指示されたタイムをクリアすること、後半ヘロヘロになってもいいから序盤から飛び出すこと、ダメになったのがどの距離なのかを冷静に見極め、調子が悪かったら何が原因かを推し測ること、など練習や大会を真剣に分析することだ。そうすれば不安は段々解消される。
それができるようになったら、究極は「何も考えるな」ということだ。
人間がもっともその力を発揮するのは、何かを考えているときではなく、何かについて考えることをやめる時である。
チハナはレースより他に関心があった。青の線は何だろう、トップで名前を呼ばれるのは気持ちいいな、等関心事が別にあった。しかし、スタート時にポケットされないよう100mレースのようにダッシュして抜け出し400mを1分15秒でまわる、という指示はきちんと守って走った。それ以外はレースのことなどは考えていない。だから、600mで指定選手を勝ち取ったのである。
来年指定記録を意識し始めても、今回のように何も考えずに走れるのか興味深い。
第305回「カスハラ」(2024年11月2日)
「カスタマーハラスメント(カスハラ)」とは、顧客が企業に対して理不尽なクレーム・言動をすることをいう。具体的には、事実無根の要求や法的な根拠のない要求、暴力的・侮辱的な方法による要求などがカスハラに当たる。対応を誤るとSNSで誇張、嘘の内容が拡散される恐れから客の言いなりになることが多い(ウイキペディアより)
学童でバスケットボールで遊んだ際、1年生がジャンプして着地で4年生の女の子の足を踏んだ。それを怒った4年生が1年生を平手打ちにする事件が起きた。その場にいた教師は「あなたは4年生なのにそれはないでしょ」ともっとも至極に注意をした。帰宅して報告したのだろう、翌日我々がミーティングしているところに母親が怒鳴り込んできた。
自分の娘だけが注意されたことが気に入らないようで「うちのこどもだけ怒られるのはおかしい。皆さんは『こども六法』を読んだことがないのですか。やったらやり返す、そうしていいと「正当防衛」(刑法36条)に書いてある」と意見をまくしたてた。
刑法にはやり返すなどの私的制裁は禁止されている上、正当防衛については成立要件は厳しく決められている。主張の脆弱性は明らかなのだが、我々は押し黙っていた。言いたいことを言って溜飲が下がったのだろう、得意げに帰っていった。法律問題以前の「やられたらやりかえすのがなぜ悪い」と怒鳴り込む母親の人間性に哀れを感じる。自分のこどもが将来どのようなこどもに育つのか考えたことがあるのだろうか。
私もバンビーニを立ち上げてまもなく、今思うとカスハラにあった。週2日来てくれるこどもに対して、週3回目は無料でいいとした。熱心さを評価したせいだ。ところが無料がいけなかった。3回目はおまけのつもりでいたようで、来たり来なかったり、ある時1人も連絡なしで来なかった。寒い中蕨公園で30分待ったが、震えが来たのでやむなく帰宅し、その晩メールで3回目はもうやりませんと連絡した。
ところが、あるこどもの母親が「おかしい、なぜやめるのかわからない。勝手すぎる」と言い出した。他人と議論するには歳を取りすぎたので、執拗なクレームを何回か無視した。
すると2週間後消費生活センターから電話があった。
「バンビーニさんですか?消費者からクレームがありました。あなた週3回やると言って料金を取っているのに2回しか実施していないそうではないですか。これは景品表示法違反です。すぐに改めてください」
「えっ?ちょっと待ってください。私は確かに2回の料金は頂いていますよ。2回来るこどもは熱心だから3回目は無料でいいということで通常のレッスンに加えて1つ講座を開きました。だが、結局無料と言うことで誰も来ないときもあれば、遅刻したり途中で帰ったりすることが起きました。これでは無料の追加講座をやる意欲が沸かず、やめさせてもらった次第です。入会する時に3回やるとは言ってません。3回目は厚意で行っただけです。それなのに私が悪いんですか?」
「そうですか、じゃ、そういう場合やめる理由をHPに書いてありますか?」
「そんなもの書いてあるわけないじゃないですか」
「大手企業は起こりうることをすべて記載しています。すぐに対応しないと相手は消費者庁に訴えますよ。そうなるとあなたの会社名などが公表されます」
「じゃ、その人と話しますので、電話したのはどなたですか」
「匿名です。だいたい私どもにかかる電話は匿名が多いのです。一度警告しましたよ。では」
なんだか慌ただしく電話を切られた。
バンビーニの“あの人”であることは確信しているが、「匿名」では何ともならない。仕方がないので「匿名の方に」という表題で事態の説明をHPに掲載した。
“あの人”は折角入会して頂いたのにいろいろなことでぶつかった。目標を埼玉県強化指定選手においているのに、“あの人”は民間のマラソン大会に重点を置き「3kmの練習をなぜしない」と練習内容にクレームを出したり、こどもが苦しそうにしているとインターバルの途中で連れて帰ったりで、今では考えられない異次元の人だった。
さすがに中学生になる前におやめになった。どこかのクラブに入ったとの噂であった。辞めて1年以上も経ったある日、バンビーニの保護者からレース前の「ルーティン」について質問されたので、“あの人”ともめた件を例に出しこのブログ「インターバル」で解説した。
「レース前に必ず“納豆巻き”を食べさせていた保護者がいた。理由を聞いたら『これを食べてベスト記録が出たことがあったので、それからずっとそうしている』と食べるのを奨励しているかのようだった。しかし、レース前に食べたら記録が出たというのは、たまたま遅刻して食べる時間がなかったからで、単なる偶然であって、いわゆる『ゲン担ぎ』にすぎない。ゲン担ぎとルーティンは全く別のものだ」と書いた。
名前はイニシャルも出さない匿名にした。ところが、1週間がたったころ私のパソコンに1通のメールが入った。
「こんにちは!お久しぶりです。〇〇です。ところで、先日はうちのXXのことを愚弄しましたね。これ以上XXを傷つけると私が許しませんよ。・・・」
見ていたんだ。大嫌いなはずのバンビーニのHPを。
今回の「カスハラ」と言う話を掲載してもいいかと家内に相談したら、「大丈夫よ、4年もたっているんだから、もうバンビーニのことは忘れているよ」
そうかもしれない。普通の人なら。でも、何か胸騒ぎがするのだ。
“あの人”はヒョウのように森の中から目を光らせじっとこちらを見ている。
ワニのように水中から目だけ出して、こちらが川に落ちるのをじっと待っている。
ある日、パソコンにメールの着信音が・・・
「こんにちは!お久しぶりです。〇〇です。ところで、先日は・・・」
第304回「オーバートレーニング症候群」(2024年10月27日)
バンビーニのこどもたち特に長距離の選手の多くは、自主トレーニングをしている。強くなったのはその自主トレ(小学生は親子ペアが主)の効果によるものが大きいと思う。
こどもは基本的に動くことや遠出が好きであり、あまり辛いという表情を出さない。ましてや小学生のうちは親のレールに乗って行動することは自然である。問題はこどもの状態を考えないで計画を立てることなのだ。
最近ユーチューブが流行りであり、そのための大会出場が目立つ。埼玉県の強化指定選手を目指すことから、有名選手に作り上げることに目標を変え、練習より大会が重要だと認識する保護者も出てきた。私はこのことを非難も否定もしない。時代の流れである。しかし、こどもを育てるときには慎重にして細心の注意が必要なのである。
この件であえて耳障りなことを言えば、
第1は大会の出場回数が多いと思う。
剣道の道場破り的発想での出場が多いのではないか。大会は選んだ方がいい。
ここで多くの反論は「たかが1.5km(時には2km)ではないか。普段の練習から比較すればアップみたいのものだ。決してこどもに負担をかけていない」という。こどもたちは気軽に走れと言われてもピストルが鳴れば真剣だ。たかが5分や10分ではないかと言ったらこどもを思いやっていないことになる。彼らはゴールしても平気な顔をしているが、年間の出場件数から判断すれば相当ストレスがたまっているはずだ。
大会は過酷でそんなにストレスがたまるのかと言う人がいるが、よく考えてほしい。
剣道で竹刀を持って2時間練習できても、真剣で死に物狂いで戦えるのはせいぜい3分が限界だ。ウルトラマンもそういえば3分しかもたなかった。つまり、「真剣勝負」とは、重い真剣を振り回し、生きるか死ぬかの超ストレスがかかる“大会”なのだ。竹刀での練習と時間で比較してはいけない。ストレスはこどもを傷つける。
小学生のY子は6年前の3年生の時にバンビーニ主催のマラソン大会に参加してくれた。その縁で4年生から入会し、埼玉県の大会で優勝を繰り返していた。根性がありラストスパートでは負けたことがない。安心してみていられる選手であった。しかしながら、ここのお母さんは決して自説を曲げない性格で、人一倍熱心な指導による自主トレや大会出場を繰り返していた。バンビーニのような小さな大会にも出てくれたのはその一環だった。トレイルランニングや東京タワー階段走など出場大会は多岐に渡っていたが、その都度優勝していた。Y子はバンビーニではなく母親が作り出した作品であった。
ある大会でベストが出なかった時は、私がアドバイスするより先に厳しい口調でY子を叱りつけていた。私の出番はほとんどなかった。しかし、その子が中学生になって陸上で記録が出なくなり、大会にも入賞が精一杯の状態になってまもなく、陸上をやめて生徒会に専念したとのうわさが流れてきた。絶対王者のあのY子ですら、燃え尽き症候群になれば、過去を捨てる。
次に休ませることも練習の一環だと心得なければいけない。往々に強い選手は練習量や質を落とすことに抵抗がある。ペアで練習する親子は保護者が判断するだろうが、そうなるとその傾向はさらに強くなる。
休養を取らない(肉体的には毎日練習、精神的には毎週大会出場など)と、オーバートレーニング症候群に陥るのである。オーバートレーニングとは、運動量が多すぎて体が適切に回復できない状態を指す言葉だ。
これにより、慢性的な疲労、筋肉痛、さらにはモチベーションの低下などの症状が現れる。疲労や筋肉痛は見た目でわかるが、モチベーションの低下を判断するのは難しい。特に当事者たる保護者が見つけるのは難しい。私の練習は正しいという信念を持っていると、宗教と同じで周りの意見が聞こえない。成績が悪いのは本人の努力が足りないという一言で片づけてしまう。また24時間一緒のコーチでは無期懲役刑の囚人と同じで、こどもは無抵抗になり、体の異変を訴えることができなくなる。
「オーバー」とは、対象のこどもにとっての許容量に対して、トレーニングの量がオーバーしている状況であって、一般的な尺度は事前に決められない。
オーバートレーニングになると、疲れやすさや、疲れが抜けないという症状がでるが、病気の診断テストでも現れないことが多い。スポーツ貧血あればヘモグロビンA1cで判断できるし、甲状腺ホルモン異常であればホルモン濃度でわかることが多いが、オーバートレーニングは病院ではわからない。数値では現れないことが多いのである。
これまでスポーツ貧血のM子、甲状腺ホルモンのN子、疲労骨折のT男を指導したが、不調の際その病気であることに気づくまで長い時間がかかった。その反省から、不調の際まずそれらを疑い、それらの疑いが晴れたのちオーバートレーニングを疑うことにしている。昨年のY子、H子の不調ももう少し見方を変えれば不調の原因が分かったのかもしれない。私の力不足が歯がゆくてならない。
バンビーニにはかつてはM子やN子やT男がいた。彼らは病気や怪我を克服し中学高校で活躍している。現在のバンビーニにはオーバートレーニング症候群の予備軍が何人かいる。しかし、発症するまで今の私にはどうすることもできない。その存在と予防を呼びかけるしかない。
第303回「ランナーズハイ」(2024年10月19日)
人間の祖先は大なり小なりの獲物を追いかけて来た。だから走ることは人間にとって本能的なものである。個人がさまざまな動機から走り始めると、多くの人がランニングを好きになるのは本能に目覚めたと言える。
1日15分走るだけでも健康によい影響がある。多くの人がランニングシューズを履いて外に出るのはそのためだ。 そして走ることが心地よくなってくると、その距離を徐々に延ばし始めても大丈夫だと思うようになると、 あっという間に、目標はフルマラソンになってしまう。
本来、長い距離を長時間走っていれば、心身に疲労がたまり苦しくなっていく。とくに、マラソン大会のような長距離レースになると、レース前半は心身に余裕があるが、後半は疲労が溜まってつらく苦しくなるものだ。ところが、本来であれば苦しくなってくるはずのレース後半に「苦しさから解放されて走ることが楽になる」という不思議な現象が起きる。
これが「ランナーズハイ」である。
ランナーズハイになると、身体が苦しさから解放されるだけでなく気分も高揚してくるため、どこまでも走り続けることができるような爽快感を感じることができる。下の写真は大人がすごいスピードで走っている画であるが、20分後大人たちの多くは高揚感にあふれて顔になる。
科学者は、ランナーズハイが肉体的疲労や痛みを忘れさせ、気分の高揚感や爽快感をもたらすのは、体内にある神経伝達物質によるものと考えるようになった。
レース前半から溜まった筋肉疲労や走り続けることに対しての精神的な苦しさは、走っている間にどんどん蓄積されていく。
神経伝達物質は、そうした心身疲労の蓄積を和らげ(鎮痛剤効果)、身体の報酬システムと言っていい『苦しいことを行ったらご褒美といえる「多幸感や高揚感」をもたらせるシステム』として作用すると考えた。
もしかすると、こどもたちが苦しさを超えて走り続けられるのは、この神経伝達物質のせいかもしれない。そう考えないと、「快楽原則」で行動しているはずのこどもの行動(バンビーニで走り続けること)が説明できなくなる。
この状態は普段本人の自覚がなければ,気づかずにやり過ごしてしまうことが多く,意識が試合の勝ち負けや記録の更新などに集中しているとその傾向はますます強いと言われている。
疲労を感じられなくなるだけでなく、多幸感を得られるのは、交合や排せつ時の快感と同じように人類存続のための神様の思し召しである。走ることが苦痛であれば、食料が得られないことになる。神様はうまく人間を操られる。この高揚感が人類の特徴である持久的狩猟法を維持してきたのである。
ただ、神経伝達物質はあくまでも脳内麻薬であり、身体に相当な負荷をかけているにも関わらず、その負荷を脳内で「ないもの、または過小なもの」と本人を騙しているに過ぎない。
しかし、ランナーズハイによって普段以上のスピードを出したり、自分の能力以上に長い距離を走ってしまうと、身体へかかった負荷により酷い筋肉痛になったり、けがをしてしまうことがある。ランナーズハイになれば、苦しみや痛みを感じることなく走り続けられるかもしれないが、本来ある苦しみや痛みは「身体の限界」を知るために必要な感覚なはずだ。身体が危険に冒されたとき、人は痛みがあるからこそ危険を察知し、危険から逃れることができる。痛みは身体からの合図であり悲鳴なのだ。だから、あまりランナーズハイを意識して神経伝達物質を出すことに注力しない方がいい。
バンビーニのこどもたちは「根性がある」といつも書いているが、もしかすると神経伝達物質によって、自分を疲れさせない身体にしているのかもしれない。本人たちに聞いてもあまり要領を得ないので、「根性」という心理的な面がすぐれているのか、脳内物質の一種である神経伝達物質の分泌が多く出る体質なのか、よく調べないとわからない。
しかし、どちらか、あるいは両方が作用して疲れさせないこどもにしているのは間違いない。
第302回「ネガティブモチベーション」(2024年10月12日)
スポーツにおいては、こどものモチベーションをどう高めていくかが、コーチの腕の見せ所である。
ものすごく崇高な目標や目的を持っていて、それを追求したい、実現したいというモチベーションはポジティブなモチベーションと言われる。それはすばらしいことで、何も言うことはない。信長が天下を統一するとい野望、野口英雄が黄熱病を根絶したいという決意、内村航平が体操で金メダルを取るという目標は、彼らをそのゴールに向かって集中させてきたと思う。
しかし、現実問題普通の人間にとってはそのような「崇高な」ゴールを追うためのモチベーションを常に維持することは難しい。
目の前に困難な障害が現れたりすると、そういうモチベーションだけではなかなか続かないことを多くの年配者は経験したはずだ。こどもならなおさら崇高な目標に向かってあえて苦労をいとわないという者はほとんどいない。つい、苦しくない方、楽な方へと走ってしまう。これがフロイトの唱える「快楽原則」という行動様式なのである。
快楽原則は幼年期を支配するが、成熟するに伴い、現実世界のため(今ある環境で生きていくため)に苦痛に耐え快楽に浸るのをやめる(または先延ばしにする)ことを学ぶ。だが、スポーツではそれに気づいたときには適格年齢を過ぎたことが多く、もう遅い。
人生とは、実際には快楽より多くの悔しい目に遭っている。大きなことから小さなことまで、いちいちそれを言わず、自分の中に秘めているだけに過ぎない。営業成績でライバルに負けた時、女性に振られた時、お金を落とした時などそれぞれ悔しい目にあっているはずだ。
そして、人間はその「悔しさ」からくるモチベーションを、日々の重要な原動力にしているところがあり、ネガティブ由来のモチベーションの方が、困難の時の瞬発力とか克服する持続力が格段に強い傾向にある。
「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)という故事成句がある。臥薪嘗胆という言葉の由来は、中国の『十八史略』に書かれている。「春秋時代、呉王の闔呂(こうりょ)は越王の勾践(こうせん)と戦いの末、敗れて亡くなった。闔呂の息子である夫差(ふさ)は、父の仇を討つために固い薪の上に寝て、その痛みで復讐の志を忘れないようにし、3年後に会稽山で勾践を降伏させた」という故事から成り立った言葉だ。
この言葉の意味は、「復讐を心に誓って辛苦すること。また、目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること」とデジタル大辞泉に書かれている。
臥薪嘗胆の「臥薪」は、薪(たきぎ)の上で寝ること、「嘗胆」は苦い胆(肝)をなめることの意。この2つを合わせて、過去の悔しい体験などをバネにして頑張ること、夢や目標に向かって日々努力すること、という意味になる。
大会でライバルに負けた時二度と負けたくないという思いから、練習に励むこどもがいる。自己ベストを出すことを第一の旨と考えるこどももいる。ベストが出ないと内なる自分に負けたと思い、悔しさから練習量を増やす。だから、こういうこども達は速くなる。
人生、良いことばかりではない。良いことがあった分、悪いこと、残念なこと、悔しいこともまたたくさんある。成功することは千三つである(1000回の機会があっても成功するのは3つくらいということだ)。だから、悪い結果に対して残念がっているだけでは、前へ進まない。ずっと落ち込んだままだと、自己肯定感が下がり、どんどん、ネガティブな方向に行ってしまう。自分は何をやっても駄目だとあきらめてしまう。嫌なことは1回だけでなく997回もある。嫌なことをエネルギーにして自分をポジティブな世界に引き上げることは人生においてとても大切なことだ。
私が土曜日に行っている「かけっこ教室」の印西温水センターは北総線の千葉ニュータウン駅にあるが、そこから印旛日本医大の10kmは完成が断念された成田新幹線の計画跡地を利用して、太陽光パネルを敷き詰めた太陽光発電が運用されている。北総線の沿線は広い道路があり太陽光が遮断される心配はない。よく考えられたものだ。
自分の持つ役に立たないと思われていた資源(性格や体力など)の利用を考え直すことも大切なことだ。
陸上においては、走るのは遅いが投げたらすごいこどもはジャべリックということも考えるべきだ。まれに好きな種目と得意な種目は異なるのである。
昔、中道貴之と言う選手がいた。彼は三重県立木本高校の時ラグビーで花園に出場した。同時に100mで10“2の高校新記録を出していた。陸上関係者からは熱烈なラブコールがあったが、ラグビーを理由に断った。もし花園に出ず、先生が陸上に慧眼があった人だったら、彼の人生は変わったかもしれない。
自分に向いていない種目をあきらめ自分を最大限に高められる種目に転向することも、ネガティブモチベーションといえる。
第301回「こやじおばさん」(2024年10月6日)
アメリカの人口は日本の約3倍である。日本もアメリカも平均値(平均の人間のレベル)はあまり変わらない。しかし、集団内の数が異なると集団内のばらつきは大きくなる。日本は国民性から言って横並びが多い(ばらつきは低い)が、アメリカは移民に対する寛容さと国の勢いから、とんでもいない悪人もいれば天才も多い(ばらつきが大きい)。しかし、ならして見れば日本もアメリカも同じレベルの人間がいるという統計的結果になる。
ふりかえって今の私の環境は、さいたま市放課後子ども居場所事業になってからは定員がなく120人にも膨れ上がった(理論的には全校児童530人が来てもいいので理論的定員は530人である)。40人定員の学童の時と違って3倍いる。
居場所事業は待機児童0を目標とした政策であるから、誰でも入れるのでお客側が強気で出ることができる。管理側の大変さは考慮されない。
しかし、人数が増えた分いろいろな児童と会うこととなり、保護者の問題を別にすれば、楽しいことがたくさんある。
まずは初めて「こち亀」(こちら葛飾区亀有公園前派出所)の主人公両津勘吉(両さん)に似ているこどもと出くわした。私の実家が亀有なので実に印象深いこどもである。
なにしろ両さんの特徴である眉毛がそっくりなのである。あくまでも漫画の上の創造物かと思ったが、この子を見てきっと作家の秋本治のそばにはモデルになった人間がいたと思った。まだこどもなので眉毛が薄いので目立たないが高校生にでもなったら眉毛がはっきりしかつつながる。あだなは「両さん」か「こち亀」になるに違いない。スポーツは万能で喧嘩早く、かつ他人の面倒見がいい。性格的にも主人公に似ている。
楳図かずお(うめずかずお)の作品に「まことちゃん」がある。この作家は「猫目の少女」や「へび少女」などホラー作家だが「まことちゃん」というギャグ作品も書いている。「まことちゃん」は坊ちゃん刈りの幼稚園児沢田まことを描いたものだ。
小1の男の子だがそっくりなのだ。でも周りは「まことちゃん」を知らないから誰も気づかない。教師の人たちも「まことちゃん」を知らない。いたずらが度が過ぎるので私にこっぴどく怒られるが、素直に反応しすぐ目がウルウルする。でも5分後また懲りずにからんでくる。ここがかわいいところなのだ。
また、特定の人物に似ているわけではないが、ある社会的階層に似ているこどもがいる。
「とっちゃん坊や」という言葉は、年齢的には十分に立派な大人であるのに「ガキじゃあるまいし」と言いたくなるような幼稚な部分がある人のことであるが、その対義語に「こやじ」と言う言葉がある。「こやじ」とは「若いのに、仕草や見た目がおやじくさい人」を表す。「こやじ」は、「子」+「おやじ」から来たものと思われる。
「とっちゃん坊や」はもっぱら男性(のおっさん)に対して用いられる表現で、あまり女性に対しては使わない言葉だが、「とっちゃん坊」やその反対の「こやじ」のような女性もこの世にいるはずなのに、これまで会うことはなかった。もう会うことはないのかなと思っていたが、いたーーーーーーーーーーーーー!ここにいた。
1年生のU子である。身体は3頭身で顔はおばさん顔である。皆がうるさくて静かになるまでおやつが配られないでいると「静かにして!」と大声で皆を諫める。遊びにおいても仕切りたがり屋である。昔東京の下町にはたくさんいた世話好きなおばさんみたいだ。私的なことだが、鬼ごっこをして庭先に逃げ込み、おばさんの育てていた花を踏み荒らし、ほうきを持って追いかけられたが、そのおばさんにそっくりなのである。
普段から仕草がおばさんで「そうそう」とか「あんたさ」とか「ちょっと聞いてよ」とか何しろおばさん語がポンポン出てくる。腰に両手を置いたり、腕を組んだり、まったくもっておばさんなのである。その姿かたちから思わず笑ってしまう。
決して美人ではないがかわいいこどもの1人である。
こどもの時と大人になった時の顔は異なるであろう。10年後会えたら私の見立てが間違っていたことになるかもしれない。これからの学校生活や塾などの過ごし方で顔は変わる。両さんもまことちゃんもこやじおばさんもどんな大人になるのだろうか、興味津々である。