第405回「草枕」(2026年9月26日)
第405回「草枕」(2026年9月26日)
夏休みの学童は大変な職場である。10時間近くこどもと一緒だと“騒音疲れ”に陥る。さらに、時間のスピードがバンビーニの時の数倍遅いので、アイシュタインの言う「時間は伸び縮みする」ことを実感している。
こどもと遊ぶだけだろうと友達は言う。ところがどっこい、彼らはペットショップの子犬ではない。オオカミのこどもなのである。時には我々教師に牙をむく、激しく吠えることも爪を立てるときもある。
間欠泉のように感情が爆発し怒りが吹き上がる者もいれば、マネージャーの顔色をうかがいながらちょっかいを出すこどももいる。1人すみっコぐらしをしているこどももいる。声をかけても無反応である。無反応のこどもも疲れるものなのだ。
毎日何かが起こる。入学式直後はトイレットペーパーが丸ごと便器に捨ててあったり、水がこぼれていたり、いたずらの度を越えた行為が見られたが、今はその手の事件はない。
些細な交通事故は起こるが殺人事件はない街のようである。それでも・・・
ある日、学童で乱暴者がマネージャーと激しく言い争った。
事件の発端は、隣の児童とひじが当たった当たらないでもめたことだった。謝れと言われても本人に自覚がないため、話が前へ進まない。そのうち後ろの席のこどもが証言した。そのことが気に入らなかったのか、後ろの席のこどもに向かって自分の帽子を投げつけた。「そりゃないだろう。K男は何の関係もないだろう」と指摘した。
すると今度は私に手を出した。拳をつかまえて「少しは落ち着け」と諫めたが、火に油を注いでしまった。大声を出したので、マネージャーが気づきI男のところに来た。
「I男君、今入山先生を叩いていたね。何で叩く、筋違いだろう」と叱り、後ろの席のK男に投げた帽子を拾った。すると「返せ!」と大声を出し取り返そうとした。
しばらくマネージャーとI男との間に押し問答が続いたが、いつもは温和な声でこどもの指導をしていたマネージャーの顔が紅潮していた。
もうこの場で説得するのは無理なように思えた。I男が一言「ごめんなさい」といえばそれで終わりなのに、意地で抵抗した。小2で意地を張るかなあ、目つきがするどくなり、説教を聞いている間唇が左右に小刻みに動き、明らかに心の動きが伝わってきた。
意地を張るこどもを見ると、いつも夏目漱石の「草枕」の冒頭の言葉を思い出してしまう。
「草枕」の書き出しは
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい」
とある。
現代語訳にすると、
「理屈で動けば人とぶつかる。
情に流されれば自分を見失う。
意地を通せば息苦しくなる。
結局、人の世は生きにくい。」
となる。
『草枕』において漱石が重視するのは、出来事をすぐ損得や善悪で裁くのでなく、“芸術として眺める態度”である。
人の世は住みにくいけれど、“芸術の視点”に立って見れば、その住みにくさの中にも静けさや美を見いだせる、というのである。
『草枕』ではこれを「非人情」と称し、芸術は現実逃避というより、現実に疲れた人間が芸術によって心の置き場を得るというものである(Wikipediaより抜粋)。
最近は私も「非人情」で人に接するようになった。しかし、私の「非人情」は漱石の言う「芸術」のフィルターではなく、「冷めた目」のことである。
悲しいことや怒ることがあっても、すぐに当事者として反応せず、一歩引いて眺める。感情を消すのではなく、感情に支配されない態度をとるということである。
難しいことを言っているわけではない。要するにテレビドラマ「家政婦は見た」の境地なのである。
「家政婦は見た」というのは、
テレビ朝日「土曜ワイド劇場」で放映された、「家政婦として派遣された市原悦子演じる“石崎明子”が、家庭内の秘密や悪事を暴いていく」サスペンスのことだ。
何気ない会話や物陰から得た情報をつなげて、家庭の秘密を見抜くもので、正義感だけで押し切るのではなく、距離感を保ちながら核心に近づくのが秋子のやり方だ。
きれいごとだけでは済まない家の事情を、冷静だけど冷たすぎない目線であきらかにさせてくれる。市原悦子の存在なくしては成立しないドラマである。
こどもが口答えしたり暴力をふるったり悪態をついたりするのはI男だけでなく数人いる。同時ではないが波状的に登場して来る。たまたま遭遇した教師は心が疲弊してしまう。
だが、私の対応は他の教師とは違う。
私はこども達が好きだが、深入りはしない。「非人情」を通す。私の「非人情」は、人情つまり人の気持ちを思いやる心や、人と人とのあたたかい情けをかけるというのではなく、「現実を見据え客観的な見方でこどもおよび背後にある家庭環境を分析する」ということだ。
この子が「なぜ、このような態度をしめすのか」「なぜこの親はこういう見方しかできないのか」「なぜ、この子は急に態度が変わったのか」に興味があるから、罵声を浴びせられても叩かれても動じない。将来どういう人間になるのかも予想してしまう。
そういう目で見ると、I男は“あおり運転をする”タイプである。プライドが高く、些細なことでカッとなり、相手が恐怖におののくまで追いかけるのである。遺伝的要素からか、2つ上のお姉ちゃんも同じ顔つきになる。家庭で思い通りにいかない時の姉弟の常とう手段なのであろう。大人になったらどんなに騒いでもどうにもならないことがあるのに、暴れれば何とかなると思っている。
この手のこどもは、暴れる時とおとなしい時の差が大きい。
だから悪態をついても保護者は「いやこれは仮の姿で本当は優しいいい子なのである。もう少し時間が経てば元のいい子に戻る」と思っている。だから怒らない。叱るだけでは行動の改善まではいかないだろうが、悪いことであると指摘することは重要なことなのに。
「非人情」のフィルターをかけて、I男の保護者に思いやると
いい子と悪い子が交互に現れると、「いい子」の期待が増大している。
謝られると「今度こそ変わるかも」と思いやすくなっている。
この子らの性格は自分が悪かったからではと自責の念にかられている。
まるで「暴力男から離れられない女性」の心理だ。
このように「非人情」の観点からこども達を見ると割と楽しい職場となる。
第404回「正統な原始人たれ!」(2026年9月19日)
地球ができたのがおよそ45億年前。魚類が誕生したのは4億6千万年前。人類(ホモ属)が魚類→両生類→猿人から進化して登場したのが約250万年前。そして、現生人類(ホモ・サピエンス)へと進化したのが約20万年前だといわれている。
現在より約1万年前(紀元前8500年ごろ)に農業革命が起こり、農耕社会へと移行していくことになるのだが、農耕民族として生活する期間は人類史上0.4%しか経過していない。人類誕生から250万年にわたる長い間、狩猟採集民族として生活してきたのが我々の祖先である。
カピパラと競走して負けるスピード、ヒグマと比べたら身体はかなり小さく、ライオンと違って爪も牙もない人類の狩猟方法は、「獲物を追い込む」やり方なのである。つまり、獲物が疲れ果てて動けなくなるまで追跡する「持久的狩猟」が、ヒト化の祖先が長い間実践して作り上げたやり方なのである。
このことから、人類は短距離の速さより、「長く走り続ける能力」に強い特徴をもっている“種”となったのである。
身体面の進化では、
人類は、祖先的な四足歩行の系統から、二足歩行の体へと進化した。
この変化では、脚が長くなり、骨盤の形が変わり、体をまっすぐ支えやすくなったのである。長い脚があり、歩幅を大きくしやすく、その分同じ距離でも移動効率が上がった。
大きい殿筋が発達し、走るときに体幹を安定させやすくなった。
走る時に頭を安定させるしくみも確立させてきた。
首まわりの靱帯や、バランスに関わる器官の特徴によって、走っても視線や頭部を保ちやすいと考えられている。
タイヤの役目にもなりバネにもなる部位を持つようにもなった。
足のアーチがあり、着地の衝撃をやわらげつつ、ばねのように使える。
アキレス腱もその反発に役立つ。
生理面の進化においては
他の動物と比較して汗をたくさんかけることは、人類の大きな強みとなった。
体毛が少ないため、走りながら熱を逃がしやすいから、暑い環境で長く動くうえで有利に働いた。
脚の長さ、筋力、体温調節、持久力がまだ発達途中なので、人類のこどもは長距離型の素質をもつが、完成形ではないと表現するのが正しいであろう。しかし、250万年前に教育に余裕があったとは思えない。早くから狩りに駆り出されたはずだ。その結果大人になって完成された“長距離型の種”になっていったのである。
我々がこどもの頃から長距離トレーニングをする根拠がここにある。小さい頃から長距離トレーニングをすることは人類の進化に沿った行動なのである。
下記の写真はヒロキの小4の時と中3の時の写真である。背も高くなり足も長くなっていて骨も太くなっている。そして何よりも継続した練習が長距離型人類として育っていったと思われる。
なぜ今人類が走ることをしなくなったのかと言うと、食料の確保が保証されているため、必要ないからである。ある地域を人類保護区として一切の食料を狩猟(やり、棒等)でのみ確保することにしたら、人類の封印された遺伝子が如実に現れるに違いない。
長距離を教えて気づくのは、速くなる選手は決して練習において手を抜かないのである。かけっこ教室で走ることを教えても6割は自分から好きで来たのではない。学童で運動会直前になって走ることを教えてほしいと毎年いわれるが、学童のように走ることを目的としていない集団では、走ることに関心のある児童は1割にも満たないのである。
食べることの問題が解決された現代では、無意識の心がフロイトの快楽原則(人は不快を避けて、快を求めるように心が働く)に強く従うと思われる。
だから、人は苦しいことはやらない。よって、こどもは長距離トレーニングをしないのである。こうなると人類のすぐれた遺伝子が大賀ハス(おおがはす)のように2000年以上もの間実(み)のまま発芽しないで過ごすことになる(大賀ハスは、いつもバンビーニの日帰り合宿で利用している「東大検見川グラウンド」で発見された)。
食べるための狩猟をしなくなったので、人類が長い期間かけてつくりあげた持久力を最大限発揮させ、やり切る遺伝子を発現させるためには、こども達が興味を持つような長距離トレーニングをさせなければならない。
通常トレーニングには3つの原理がある。過負荷の原理、可逆性の原理、特異性の原理の3つだ。
過負荷の原理とは、「いつもより少し強い刺激が必要」ということだ。
普段の生活と同じ強さでは、体は大きく変わりにくい。少しきつい負荷をかけることで、筋力や持久力が伸びやすくなる。
可逆性の原理とは、「やめると効果は戻りやすい」と言う意味だ。
トレーニングで得た力や体力は、やめると少しずつ落ちる。つまり、効果を保つには続けることが大切だ。
特異性の原理とは、「行った内容に応じて伸びる」ということである。
鍛えた内容に応じて体は適応する。たとえば、走れば走る力が伸びやすく、重い物を持てば筋力が伸びやすい。腹筋ばかりしても、別の部位が同じように伸びるとは限らない。
残念ながら、バンビーニのこども達の中にはトレーニングの3原理に従わない者がいる。20本のインターバルなのに、やれ気分が悪い、足が痛い、トイレなどと訴え、15本しかやらない。嫌味を言っても感じない。設定タイムを守る努力も意欲もないのである。素質があっても今以上には伸びないであろう。これでは、人類保護区に追いやられたら生きることが難しい。皆と協力して持久的狩猟ができないではないか。
長距離選手にとって大事なことは、現代社会にあくせくするのではなく、遠い祖先に思いをはせ、持久力の強い遺伝子を残してくれたことに感謝すべきなのである。彼らと一緒に400mx20を練習しようと言ったら、激しい抗議にあい、4000mxnになってしまうはずだ。バンビーニの練習ではきっと物足りないと思うだろう。当時の彼らの心構えを慮って練習しなければならない。
君らにとって重要なことは「賢い小学生になれ!」ということではなく、「正統な原始人たれ!」ということである。
それが持久的狩猟をあみ出した「人類の“末裔”」の義務である。
第403回「大いなる野望」(2026年9月12日)
昔、大きな夢があった。
高度成長期に育ったこどもの頃、飲料水の種類はそれほど多くはなかった。自動販売機がない時代で、ジュースと言えば「三ツ矢サイダー」か「カルピス」、「ラムネ」くらいであった。しかもすべて瓶入りである。コーラと言う飲み物がアメリカから来るぞと日本の飲料水メーカーが身構えていた時期だった。
こども会の野球大会ではご褒美にジュースが出た。大きな容器に氷を入れそこにかき氷用のシロップを1本入れる。1本はその日で使い切るため、人数によって随分濃度が違ってくる。人数が少ないと5倍、多いと10倍に薄められる。
カルピスは特別な時の飲み物で、親せきの家に行ったときか隣の家のお中元のお下がりをもらった時に飲むものだった。倍率は4~5倍だった。それでもシロップの5倍おいしい。
私はこの時思った。
大人になって働くようになったら自分のお金で「カルピスを原液で飲みたい!」
しかし、今となっては健康を気遣う年齢となり、夢は「大いなる野望」で終わった。
ハンバーガーという食べ物はアメリカ漫画の「ポパイ」で知った。ウインピーさんがおいしそうに食べているものは当時の日本にはなかったので、母親に聞いても「知らない」という。
何だろうと思いながら高校生になって、初めて「ハンバーガー」というものを食べた。「美味しい!」なんという食べ物なのだろうか。特に2,3年後に食べた「ビックマック」というハンバーガーは特別なもので、通常のハンバーガーの10倍美味しい。しかし、昼食を節約して買うものだから、数か月に1回しか買えなかった。
私はこの時思った。
大人になって働くようになったら自分のお金で「ビックマックを5個食べたい!」
しかし、お金の問題を解決できるようになったのだが、もう5個を消化できる胃袋ではなくなり、夢は「大いなる野望」で終わった。
街頭テレビがあった頃、親戚にテレビを見に行ったが、こどもの番組ではなく大人の番組しか見せてもらえなかったと父親に嘆いたら、意地でテレビを買てくれた。よって、家のテレビは父親の支配下にあった。だからNHK(1チャンネル)からテレ東(12チャンネル)に変える時は左回しで11回カチャカチャ回して変えないといけないものとされていた。チャンネルは右ねじだからという。父親がいない時は右に回す。1回で済む。
テレビは富裕層と貧困層に否応もなく分ける。なぜなら番組を見ていると、家の白黒テレビの右隅に「総天然色」と表示されていた。「この番組はカラー放送ですよ」というメッセージだ。父親は「気に入らん」といって後日色付きのフィルターを買ってきて取り付けた。「カラーだ、カラーだ」と騒いでいたのは父親だけだった。
しかし、大人になるまでの間は家でブラウン管の白黒TVで十分だった。あさま山荘事件、三島由紀夫割腹自殺、東大安田講堂事件、など多くの事件は私にとって白黒であった。この時代「善」と「悪」は単純で白か黒かだったから、「白黒」テレビでよかったのかもしれない。
おばあさんが頭から血をながしたレスラーをカラーテレビで見て、心臓発作で死んでしまったと言う事件があった。カラーで見ない方がいいと言ううわさが流れ、父親は時々映らなくなった白黒テレビを叩いて見ていた。
大人になって働くようになったら自分のお金で「リモコン付きのカラーTVを買いたい!」と思っていたら、家内が私に嫁いで来たときにカラーテレビを持って来た。家内には内緒だが、私のかなった唯一の野望であった。
大人になってからも野望は生まれる。
「死ぬ寸前、最後に何を食べて死にたい?」と会社の女の子から質問された時、「焼肉」と言ったら、「同じ、同じ」と女の子がキャキャ言っていた。
余談だが、焼肉は北浦和の「炭火亭」が日本一うまい。叙々苑も勝てないだろう。コストパフォーマンスも味も・・・ここの焼肉を食べて死ねれば本望と思った。
大人になって「焼肉」を好きな時に好きなだけ食べられるようになったが、よく考えて見れば死ぬとき「焼肉」なんて、点滴をしているかあるいは酸素マスクをしているのに食べられないであろう。また大いなる野望で終わってしまう。
教え子が全国大会に出られたら、大学を卒業する時白木のカウンターの割烹に連れていき、教え子と一杯飲むという夢がある。
7年前全中に出たケイゴが今年度卒業する。野望が自力でかなえられると思っていたら、最近になってケイゴが体質的にお酒が飲めない身体であることがわかった。母親も飲めないので遺伝であろう。お酒は話を盛り上げる触媒だ。教え子と一杯飲むことは大いなる野望で終わらせてはいけない。
ヒロキがいるじゃないかと言う人もいるが、まじめで話を非論理的演繹法で通すヒロキだと絡まれそうで怖い。というより義理堅い男だから高校の先生や大学の監督と相思相愛になり、私のことは忘れてしまう確率の方が高い。誘っても「練習がありますから」と断られるのがオチである。
であるならば、ダイヤ(3年生)とミツグ(2年生)を強化指定選手に育て、全中にいけるようにして、大学を卒業する頃になったら白木のカウンターで日本酒を飲む方が確かである。この子たちと飲めるようになったら幸せだろうな。どんな大人になっているのかな、その時どんなことを話すのか、どんな思い出があるのか、聞くのが楽しみである。
しかしそうなると私の望みには否応もなく時間軸が加わって来る。たとえ一緒に飲める機会ができても、私の身体がまだお酒をのめる丈夫な身体を保っているのかどうか心配だ。だから、今はその日のために“鍛錬”として毎日お酒を飲んでいる。
神様、お願いです。大それた望みはもう言いません。彼らとおちょこ一杯の幸せを味合わせてください。
第402回「小さな背中の向こう」(2026年9月5日)
夏休みが終わる頃、いつも自由遊びの時暴れるK男が珍しく動かずに立っていた。皆はベイグレードやポケモンカードをやっているのに、その背中はいつものエネルギッシュな姿ではなく、うつろな後ろ姿に見えた。「おかしいな」と思って近づいて行ったら、「歩けないんだ」と涙をこぼした。
「なぜ声を出して助けを求めないの?」と尋ねたが、何も言わなかった。たぶん自分の異常に驚いたからだと思う。
歩けないのでマネージャのところまでだっこして連れて行った。今日は悪いことにスリムパンツなので、確認のため裾をめくりあげると擦れて、叫ぶほど痛い。左手の内側に大きなあざがある。転んだのかと尋ねても違うと言う。あざのあるところを触るとすべて痛い。母親が迎えに来るまで椅子に座らせた。
お迎えに来たと言うので歩こうとしたが、動けない。仕方ないのでまた彼をだっこして、お迎えの車のシートに座らせたが、足が曲げられないため苦労した。母親は学童に送る時は何でもなかったという。数時間でこの変わり様である。
翌日「入院」したと聞いた。
膝が腫れている、歩けない、強く痛がる、あざのような跡が増える、ぶつけた覚えがない、などの症例から免疫不全症の一種だといわれたそうだが、特効薬の投与で翌週元気な姿で戻ってきた。
夏休み明け、宿題のプリントを忘れたとS男が訴えてきた。
まだ手を付けていない同じプリントをたまたまY男が持っていた。
「Y男、悪い、そのプリントコピーさせてもらえないか。S男が家に忘れて来たみたいだ」
「いいよ」
マネージャーにコピーさせてもらおうとしたら、待ったがかかった。S男がいつも忘れるらしい。そのため少し事情を聞こうとS男を呼んだようだ。するとY男は自分のプリントが問題になっていると思ったようで、心配になり見に来た。
マネージャーは「関係のない子はあっちに行って。ここは先生とS男君とのお話だから」Y男はまったく聞く耳をもっていなかったので、大声で怒られた。マネージャーの声の大きさに何も言わず(何も言えなかったというのが事実だろう)元の席に戻ろうと歩き始めた。彼の小さな背中はわずかに震えていたように見えた。
事情はすべて呑み込めた。思わず駆け寄ってY男を抱きしめた。
「ごめん、俺が悪かった」
折角親切で貸してあげたのに怒鳴られるなんて、くやしかったであろう、私のことばで涙を溜めていた目のダムは決壊した。
「お前のせいだ」
と私を叩き始めた。
私がすぐ事情を話せばマネージャーも怒らなかったのだが、S男のこれまでの状況を知らなかったので聞いていたから、自分の席に戻る対象がY男だけだったことに気づくのが遅れてしまった。耳が遠くなったせいで、聞きたい話に集中すると他の事象が疎かになってしまうのが今の自分なのである。
背が小さいため、せいぜいお腹のあたりしか叩けないので痛くはなかった。くやしさのはけ口として叩くことで収まるなら、好きなだけ叩きなさいと思った。
Y男の小さな拳が私の“君をかばえなかった後悔”を叩き出してくれるなら、このまま学童が終わるまで叩いていてくれ。
Y男は自分の気持ちを整理したり表現したりする力が発達途上なので、つらさをためこみやすい傾向にある。
また、この子は時々幼児返りをすることがある。
幼児返りは、いったんできていたことが一時的にできなくなったり、年齢より幼い言動が増えたりすることだが、小学生ではさすがに少なくなるが、Y男は時々やる。
たとえば、抱っこを求める、赤ちゃんのような話し方をする、おやつで手助け(袋を開けてくださいとかせんべいを割ってください等)を強く求める。
子どもなりに心を落ち着かせようとして、前の「安定した発達段階」に戻るからなのだろう。
Y男はさらに突然鳥のものまねをしたり、
名前を確認する際とんでもないほどの大声を出したり、教師の注意が長くなると口調が同じに聞こえるのだろうか、JRの放送の真似事を始める。「まもなく1番線に各駅停車大船行きが参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください。次は南浦和、南浦和、武蔵野線はお乗り換えです」
決して嫌われているのではないが、ちょっと扱いが面倒くさいので友達は彼にあえて近づかない。
「Y男ゆるせ、お前をかばえなかった俺が悪い」
「おい、呼び捨てにするな」
「そうか、そうか、よし、よし、Y男ちゃん、Y男君、Y男さん、Y男様、殿、御屋形様、上様・・・こんなところでいいかな?」
大人のやるせなさは、
どうしようもなく切ない気持ちや、気持ちの置き場がない苦しさを表す言葉だ。
こどものやるせなさなら、
こどもがうまく言葉にできないまま感じる、むなしさ、悲しさ、悔しさ、のような気持ちを指すのであろう。
今回は
気持ちを言葉にできない(むなしさ)
大人に気持ちをわかってもらえない(悲しさ)
自分がS男のためにしたのになぜ怒られるのか(悔しさ)
といったことが原因だ。
彼が席に戻らされた時見た背中には、はっきりと書かれていたような気がする。
その様子を見ていたマネージャが私とY男を呼び、
「なに?これY男君の宿題の紙だったの?ごめん、ごめん、先生てっきりH君の宿題の紙だと思ってたよ」
マージャ―が謝った形になったので、Y男も納得したようだった。
マネージャーのところから自分の席に戻る時、Y男は私の手をスーッと握った。
彼は私をゆるす証として私の手を握ってきたのである。
手をつなぐのは若い恋人たちだけの特権ではない。2、3秒の時間だと思うが、老人とこどもとの間にもまたその特権が生まれる時がある。
第401回「集合的沸騰」(2026年8月30日)
8月下旬の全中陸上選手権大会では、県ごとにたくさんの選手らが集まって同じ応援をする姿が見られた。ヒロキの応援で一番前に早々と陣取っていたのにもかかわらず、次第に他県のその集団に負け観客席の中段迄追いやられてしまった。文句を言えるような雰囲気ではなかったのである(ちなみに埼玉県は集団としてのしばりはなかった)。怖いお兄さん達が肩で風を切って歩いている時は、自然と道を譲るようなものである。
社会学者エミール・デュルケムが宗教現象を説明するために用いた概念に「集合的沸騰」と言う言葉がある。大勢の人が集まり、同じ感情や興奮を共有して「一体感」が極端に高まる状態を指すのだが、そこでは「自分」という感覚より「我々」が前面に出て、一体感や高揚感が生まれるとする。
集合的沸騰が起きると、人びとは「自分たちは同じ集団の一員だ」という感覚を強く持つようになる。その結果として、共同体意識が強まり、社会のまとまりや「連帯」が形成される。
岸和田だんじり祭りや浅草三社祭などは地元の者にとってエネルギーの源であるだろう。大曲の人たちは仲間と一緒に花火を見ることが“大曲人”の証なのである。
集団であれば「集合的沸騰」はいつでもどこでも起こりうる現象であるが、ここではスポーツに限定して考えてみたい。
大観衆の競技場や満員のスタジアムで、決定的なゴールや逆転ホームランが出た瞬間
何万人もの観客が同時に立ち上がり、叫び、歌い、抱き合う。
このとき、個々人というより「スタジアム全体が一つの生き物」のように振る舞っているような感じになる。
サポーターが決まったチャント(みんなで繰り返し歌う応援や唱和)を、太鼓や手拍子とともに長時間繰り返す。
コールリーダーの合図で、全員が一斉に声を合わせ、ジャンプしたり腕を振ったりする。
さらに、優勝や昇格が決まった瞬間、選手・スタッフ・観客が一斉に歓喜し、泣き出す人、抱き合う人、知らない人同士でもハイタッチが起きる。
ここでは、単なる喜びを超えて、「長年の歴史」や「地域の誇り」といった象徴が一気に立ち上がり、会場全体で共有される。
一方、プレーする選手側での集合的沸騰もある。
円陣を組み、大声で掛け声を合わせた直後に一気にテンションが上がる。
タイムアウト明け、ベンチも含めて全員が叫びながらディフェンスに入る。
ホームゲームで観客の大声援を背に「自分の力以上が出ている」と感じる。
チーム内部での小さな「儀礼」(拳をつきあわす動作や天に指をさす動作など)や、観客との相互作用を通じて、一時的に集合的沸騰に近い状態になっている例だと考えられる。
これは成績によい影響を与えるので、バンビーニでも大会の時は「掛け声をかけよう」と促すが、未だに決まらない。「えい、えい、オー」でも「ファイト、頑張りましょう」でもいいと言っているのだが・・・かと言って、私が決めることではない。
同じ熱狂でも、行き過ぎると怖さが出てくるところが、集合的沸騰の問題点である。
集合的沸騰は、ポジティブな一体感を生む一方で、排他的感情や暴走を生む危険がある。
強い「仲間意識」が生まれる一方で、「仲間ではない人」を排除する力も強まりやすくなる。仲間は同じクラブの人間ではなく、同じ発想の持ち主であることが多い。極端な場合クラブのコーチをも排除するようになる。類は友を呼ぶのである。
祭りやイベントでのよそ者排除、ファンや支持者同士の対立、少数派や異論を唱える人への攻撃など「我々」と「彼ら」をくっきり分けてしまう。極端な場合クラブのコーチですら「彼ら」にされてしまう。
強い一体感と興奮が高まると、個人の判断よりも「皆がやっている」が優先され、「あなた 出ないの?」と、いろいろな大会に頻繁に出るグループと強化指定記録突破を目指し大会を調整するグループに分かれてしまう。
強い一体感を持つグループは、大会に出ないと日常が「空虚」に感じられ、常に刺激を追い求め毎週のように大会に出場するようになる。また、勝つことによる優越感も行動を後押しする。
特定の集団(ユーチュブつながり)や教祖的存在(全国1位といわれるこどもの保護者や高い望みをもっている保護者など)への依存などは、適度であれば心の支えにもなるが、これが中心になりすぎると、生活や人間関係のバランスを崩す危険がある。
”速い子だけの集団”にはない「遅い子がひたむきな努力をしている姿、他のこどものタイムの伸び率を見ること、こども同士の純粋無垢のつきあい」も、こどもには今の時期必要なのだ。
集合的沸騰は、社会や文化を支える大きなエネルギーでもありながら、同時に暴走しやすい力でもあるので、「熱狂の中にいても、一歩引いた自分をどこかに残しておけるか」が大切なのである。
私がこの小論でなんども書く対象の保護者は、私の息子より年下であり、ナイスガイなので、放っておけないのである。嫌われても言わざる得ないのである。
これまで家族を養うため、趣味らしい趣味もなく一生懸命働いてきて、やっと見つけた趣味「自分のこどもの陸上競技の才能を伸ばす」ことで、生きがいをつかんだことはよくわかるし、ユーチューブでプロデューサー兼ディレクターのおもしろみを享受したのは肌で感じる。
しかし、「だからといって、こどもを毎週のように大会に出すのはよくないのです。オリンピックに出したいのなら、じっくり育てなさい。お仲間の“皆がやっている”ということに迷わされてはいけないのです」
ナイスガイであり続けるには「熱き心と冷めた目」を持たなければいけません。
(こどもたちの目が輝いている)














































































