バンビーニ陸上クラブ

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インターバル(第273回)

第273回「スーパーマン」(2024年3月17日)

小学生の全国大会(日清カップ)には長距離の種目がない。恐らくこれは日本陸連の次のガイドラインによるものと思われる。

pdf 小学生の長距離ガイドライン(日本陸連).pdf (0.11MB)

この指針に基づいて、埼玉県は1000mを他の自治体は800mを長距離種目のトラック最長距離として、自らの大会では採用している。全国比較をするにはどちらかに統一されるであろうが、800mになる可能性が高く、ますます“長距離が短くなっていく”。

いったいこのガイドラインを守っているクラブチームがあるのだろうか。守っているとすれば、それは戦後食糧管理法を厳守し、ヤミ米を拒否して餓死した裁判官と同じだ。決してこどもは強化指定選手にはなれない。

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長距離は、こどもに対して悪影響を及ぼすものなのだろうか。

小中学校の体育指導はスキャモンの成長曲線を基にしている。以前にも書いたがスキャモンは解剖学者であり、スポーツの適正な時期を研究するためのものではなかった。

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大澤教授は新体力テストの結果から持久力曲線は、就学前に大きな発達ピークがあると指摘している。バンビーニの小学生低学年の指導はこの仮説に基づいている。

文科省や日本陸連の有識者はこどもは弱いものだとのイメージがあるのかもしれないが、実際の現場に立つものとして、そのような感覚はない。

大人の都合による生命誕生以来、こども達は節目節目に大人の都合で未来まで決められてしまう。“弱い人間を守る”という大義名分は大人の都合でしかない。

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 こども達は大人が考えるほどやわじゃない。それどころか練習を積み重ねていくにつれて記録は伸びていく。その伸びる芽を摘み取りかねないガイダンスはこどもの内臓器官の発達を考慮していないと思われる。

長距離にとって大切な器官は大きく3つのファクターがある。心臓、肺、汗腺、である。

(1)心臓

出生時には男女とも20g程度だが、10歳頃から発育が加速し、男子では17~18歳頃、女子では13~14歳頃に発達がピーク(男子300g、女子230g)となる。

子どもは心拍数(脈拍)が多いが、子どもの心臓は大人よりも小さく、1回の収縮で送り出せる血液量が少ないため、心拍を速くして送り出す血液量を増やしている。

成人男性の心拍数は毎分65~70回、成人女性は70~80回なのに対し、幼児の心拍数は110回前後と、標準的な大人の約1.5倍になるが、6歳くらいになると90回程度になり、小学生高学年になると、大人の90%くらいの心拍数(心臓の大きさ)になる。

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(2)肺

肺の大きさはまだ大人の大きさにはなっていないが、ガス交換の高率に貢献する肺胞の数は、出生時には20万程度だが、8歳児(小学2年生)で成人と同じ300万程度に増加する。

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(3)汗腺

「汗腺(かんせん)」の数は人種によって違うと言われているが、だいたい1人200万個〜500万個の間になる。日本人は平均で230万個くらいの汗腺があると言われている。しかも、こどもは生まれた時から大人と同じ数だけ持っている。

ただ、汗腺には“能動汗腺”と“不能動汗腺”の2つがあり、2歳半頃までに”能動汗腺”か”不能汗腺”かが決まり、それ以降は”不能汗腺”が”能動汗腺”になるようなことはない(久野氏著書『汗の話』より)。

3歳以降はもう、どう頑張っても能動汗腺を増やすことはできないから、塩分や水分をとりながら、3歳までにクーラーのない家で育てる、屋外で遊ばせるなどの対策が大事である。こどもの発汗能力は大人と比較して未熟であるが、能動汗腺を鍛えれば体の小さいこどもの方が表面積が小さい分温度調整にすぐれていることになる。

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(4)短い身体

ふくらはぎが第二の心臓と呼ばれる話は以前書いたが、バンビーニのこどもたちにエンタシスのようなふくらはぎの持ち主はいない。ふくらはぎが未熟なのである。なのに、長距離が速いのは、足が短い分心臓からの距離が短いからだ。重力に逆らって心臓だけの力で不純物を肺にまで運べるから、ふくらはぎに頼る必要はないのだ。

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このように見た目と体の中身では大きく異なり、黄色いTシャツを脱いだ小学生は大人が考えるより大人なのである。彼らはこどものかっこうをした宇宙人ともいえる。

デイリープラネット社の実直で温厚な新聞記者であるクラーク・ケントは、事件が起きると別室で背広を脱ぎ、スーパーマンになって事件現場に飛び出し悪を懲らしめた。スーパーマンはクリプトン星消滅の際、実の父親によって地球に避難させられた赤ちゃんであり、その子を見つけたのがケント夫妻であった。こどもたちの何人かは、もしかすると他のクリプトン星人によって送られたスーパーマンであるかもしれない。こどもたちを地球人として育てるのではなく、養父母のケント夫妻のように、宇宙規模の観点からしっかりと育てなければいけない。日本陸連のガイダンスは地球人向けのガイダンスのように思えてならない。

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こども達を見た目や思い込みで判断してはいけない。彼らは大人が考えるほどやわじゃない。

 その実力は「弾丸(たま)よりも速く、力は機関車よりも強く、高い強化指定記録もひとっ跳び!」なのだ。

 

第272回「鳥を呼ぶ少年」(2024年3月10日)

高校の漢文で中国の昔話を読み下したことがある。ネットで調べてもどんな題名かわからなかったが、おおよその趣旨は次のようなものだったと思う。

1人の少年が口笛を吹くと鳥たちがたくさん集まってきた。その評判を聞いて猟師が「網を持って来たから、また鳥を集めてくれ」とお金をあげて依頼した。

お金をもらった少年はいつものように鳥を口笛で呼んで集めようとしたが、鳥は1羽も寄ってこなかった。

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この時は話の内容はわかったが、作者が言わんとしたことがわからなかった。数十年が経った今、やっとその意味がわかった。

学童で、こどもが何か面白いことを言ったりやらかしたら書き留めておこうと聞き耳を立てていた。いつもならゲラゲラ笑うことが数件起きるのだが、この時は何も起こらない。

ウケ狙いの話題を振っても、反応しない。変なところに力が入り、その微妙な変化をこどもたちは感じ取っていたのかもしれない。

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学生時代の“青春の蹉跌(さてつ)”は、同じような過ちだった気がする。

大勢でいるときは女の子は私の周りに集まって来た。気配りがあり、話をすれば面白い。が、女の子と2人きりになると、とたんにシャイになり話が進まない。しばらくすると決まって女の子は去っていく。

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これが、いるだけで男の魅力を発散させていた高倉健としゃべらなければ存在感を示せない私との差だ。私が盛り上げているのは場の雰囲気であって、女の子達ではないことに今になって気がついた。

自分の行動は、展開ラグビーの早稲田に対して「前へ前へ」の明治のラグビーのようなものだ。ゴール間際まで押しても、ちょっとしたミスでターンオーバーされ、バックスにつながれトライされる。展開ラグビーは女の子にはさぞ魅力的であっただろう。

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モテなかった学生時代から社会人になるとモテたい感情がさらに強くなり、目がギラギラして相手の女の子に警戒された。普通に話をしていた仲なのに、優しいしぐさをされてちょっと相手を意識すると、スーと離れていく。女の子たちは、まるで中国の鳥たちのようだった。

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会社員の時はスコアメイクに専念し、毎日練習、毎週コースに出てゴルフに入れ込んでいた。ドライバーは親の仇を叩く感じでアドレナリンが周囲に飛び散り、ボールはコントロールを失い左右に大きく曲がり、気づいてみるといつも2打目は崖の上か池のそば。パットはラインも芝目も読めない。最初のパットは下りのラインだったようで、ピンから大きくオーバーしてしまった。下りだったのだから返しは上りだと考えより強く打ったらさらに下って行った。「?」と思ったら先輩に「お前、馬鹿か。このホールはすり鉢のホールだ」と言われた。そもそもゴルフのセンスがない。当たらないんじゃないか、曲がるんじゃないかと思うとなかなか打てなかった。

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今は年1回誕生日に息子とコースに出るだけだ。もちろん普段練習することはない。ところが、どういうわけかボールはまっすぐ飛ぶし距離も出る。息子と一緒なので、当たらないんじゃないないかという不安もない。肩に力が入っていない自然体なのだ。

現役時代のロボットのような硬さがないし、迷いもないから2打目3打目をすぐに打つ。息子に「お父さん、考えている?」と言われる。「ああ、歩いている間に全体を見て何番で打つか決めている」と答える。本当はドライバーの他に7番とサンドの3本しか選択肢がないから、簡単なのだ。無理して距離に合わせたアイアンは使わない。一番使いやすいものにしている。

プロのようにやろうとするから失敗する。自分の実力に合ったゴルフに切り替えたら、尺取虫のようだが思うように当たるので楽しい。現役時代どうしてあんなに力んでいたのだろう、今になって悔やまれる。

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 半年ほど前から調子を崩していた女の子に、駅伝のために手を変え品を変えリラックスさせようと試みた。「練習と同じように走れればいい、それ以上の記録を狙わなくてもいいよ」といい、インターバルの設定タイムはレベルを下げてやらせた。ところが、これがかえってプレッシャーになったようだ。「私は本番になったらいつものようには走れない、とコーチは思っている」

また、結果は不調だったので「君の責任ではない。こういうことはいつでも起こりうる」と言った切り、皆の前でも駅伝の結果についてはコメントしなかった。腫れ物に触るようにしてしまった。それが逆に辛かったのだろう、その子はバンビーニを辞めてしまった。

こどもはコーチの言動に敏感だ。ガチガチの優しさは、無数の金属突起がついた手で抱擁するようなものだ。なぜ気づかなかったのだろうか。

優しいコーチを意識したとたん、全身に力が入り、いつもは心の奥底にある無意識の領域を彼女から引きずり出してしまった。自然体に接すれば、鳥は去ることはなかったのに。優秀な人材を・・・

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第271回「よくよく」と「くよくよ」(2024年3月1日)

「くるまはまるく」「てんぐのぐんて」「このこどこのこ」など、上から読んでも、下から読んでもおなじ内容になる文を回文とか、さかさことばという。

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陸上の練習の実施可否を決める際に、よくこの手の回文の状況が起こる。

「よくよく」「くよくよ」である。

先週雨のため水曜日、金曜日、日曜日と3回も中止にした。

雨の予報が出た当日はクラブの練習を実施するかやめるかの判断をする。判断をする前に、パソコンで「よくよく」(*1念を入れて物事をするさま)調べてみる。

朝からヤフーの雨雲レーダーで雲の動きを追っている。雨雲が何時ごろ我々の練習場に来るのか、雨脚は薄い水色なのか濃い水色なのか、風は何メートルなのか、気温は何度なのかを確認して判断する。その際、薄い水色の時が判断に困る。1mmの雨はやっても大丈夫な時もあれば冬の練習のように辛い時もある。

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最近の天気予報はよく当たるが、時々3日前の予報と当日の天気が変わることがある。安心していたら手ひどい目に合う。

「よくよく」(*2程度がきわめてはなはだしいさま)考え抜いて中止の決断するが、決断した後、空を見上げることが多く、さらに雨がやんだりすると、「えっ、中止になきゃよかった」と「くよくよ」(いつまでも気にかけて、あれこれと思い悩むさま)してしまう。

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久しぶりに4人も体験に来る日を中止にするのは断腸の思いがある。家内から「もうくよくよしてもしょうがないじゃない。打ち首にしておいて殺さなければよかったと悔やんでいる戦国武将のようなものだよ」と男らしい言葉が出る。私は時々女々しくなる。政治家は決断をする職業だと言われている。私は到底政治家にはなれない。

しかも自分の判断ミスを認めたくないため、「雨、雨 降れ降れ もっと降れ 私のいいひと連れて来い♪」(八代亜紀)の歌を口ずさんでしまう。自分でも嫌な男だと思う。

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バンビーニは今年で6年目に入るが、幸いにも私が体調を崩して休んだことはない。問題は天候だけだ。予備に体育館を借りればいいじゃないかと言う人がいるが、当日借りられる体育館などはない。すべて3か月以上前の予約制だし、料金も陸上競技場より大幅に高く予備で抑える金額ではない。また各曜日とも月4回なので中止が続くと振り替え日に苦労する。

雨が続くと、「よくよく」(*3限度をはるかに超えているさま)ついていない男だと自分を責めてしまう。だから、合宿や大事な大会にはバンビーニの晴れ男・晴れ女を必ず連れていく。ゲームの時は勝ち癖のあるこどものいるチームにつく。人は迷信と言うが私は「アノマリー」と認識している。

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*)理論的根拠があるわけではないが、よく当たる相場での経験則のことを「アノマリー」という。「節分天井・彼岸底」「辰巳天井」などたくさんある。

あれこれ統計を分析しながら解説する投資専門家でも最後はアノマリーに頼る。

練習や合宿の実施の際の「よくよく」→「くよくよ」の連鎖は、私の生きざまなのかもしれない。嫌だ、嫌だ。こんな性格。

悩まないで済むのは7月、8月だ。夏は台風以外は中止にしない。雨が降っても、シャワーランでこどもたちには辛いどころか楽しい時になると思っている。

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私も社会人でラグビーをしたが、泥んこの時はタックルもためらわずに行けるし、トライの時のタッチダウンはウオータースライダーになるので楽しかった。大人でもそうなのだからこどもはもっと楽しいに違いない。休憩の時や帰りにタオルで体を吹いていれば夏の雨ふりで風邪を引くことはない。ただし、アノマリーであるが・・・

何はともあれ、早く夏が来てほしい。「祝太平洋高気圧!」

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第270回「シーシュポスの岩」(2024年2月25日)

哲学と聞くと、実生活にとって役に立たない学問と思っている人が多い。物事の「本質」を追求する学問だから素人にはとっつきにくい。素粒子や宇宙のブラックホールを研究する学者らとあわせて、対価を払うのは誰なのだろうと疑問に思ってしまう。幼稚園や小学生の教師に給料を支払うのはよく理解できるし、地震の研究や恐竜の発見に専念している学者の存在意義はわかる。

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存在意義を大上段に振りかざせば、哲学者たちに猛反発をされるだろうが、その哲学者らは「人生の意味」を真剣に考えている。

ある新聞のコラムでは「シーシュポスの岩」というギリシャ神話をとりあげて、人生の意味を考えていた。

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シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受け、巨大な岩を山頂まで上げる労働を命じられた。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで必ず麓まで転がり落ちてしまう。彼はこの苦行を永遠に繰り返されなくてはならない。

フランスの哲学者カミュはこのような人生にどんな意味があるのかと唱える。

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アメリカの哲学者マーク・C・テイラーはシーシュポスに薬物を注入して、岩を押し上げたいと衝動を起こすようにすればいいと考えた。そうすればシーシュポスに大きな充実感を与えるだろうから、彼の人生は有意義なものになるはずだと主張した。

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しかし、同じアメリカの哲学者スーザン・ウルフは薬物漬けのシーシュポスは本人の精神が薬物でハイになっているだけで、社会に意義ある結果を生み出そうとしているわけではないから意味のない人生を歩んでいると主張する。

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日本の哲学者森岡正博は、ウルフの考えでは自分が心から幸せになることを第一に目指している人生にはまったく意義がないことになるが、現実に多くの人々は己の幸せな人生を歩もうと心掛けている、その何が悪いのかと唱えている。

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哲学者の討論会は、リンゴ農家のおばちゃんと場末のキャバレーのホステスと白百合学園の女子中学生の集まりのようなものだ。結論を出したくても、お互い考えに共鳴する点がない。

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さて、話の流れから我々もこの哲学者らと同じように、陸上競技の本質を考えてみたい。

「陸上競技の意味」という命題は、わかりやすく言えば「陸上競技を続けることは人生にとって何の意味をもたらすのか」ということになる。

一つ目は文明が発達しても、狩猟民族であった人類の原点を再確認することができる。

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文明が発達して人類は食べることに何の不安も心配もなくなった。だが、突如世界の仕組みが激変しても対応できる能力は常に確認しておくべきだ。毛のない猿であること、口呼吸できること、狩りの方法として集団行動ができることなど、他の動物より優れている人類としての特徴を思い出してみることだ。

二つ目はフロイトの快楽主義からの脱皮である。

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人間は苦痛から遠ざかり楽しいことを好むというフロイトの快楽主義に反して、自らを厳しい練習に追い込む姿は、大人になっても克己ができ、理想的な道徳主義に成長することが期待される。

三つ目は目標を立て努力し成就する達成感である。

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四つ目は平和や治安の維持によって争わなくなった人間が、他人と競争することを思い出すことである。

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以上のことを小学生のうちから体験すれば、中学生以降遭遇するであろう困難な場面で役に立つはずだ。大人になれば自然と身につくかもしれないが、小学生から身に着けておいた方が人生有利である。

ギリシャ神話ではいつも神様がお怒りになって、人間に罰を科し、そこからいろいろなストーリーに展開するのが一般的である。ギリシャの神様は怒りん坊なのだ。

しかし、我が日本には神の君「家康」がいる。

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彼は次の遺訓を残している。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。・・・」

シーシュポスと似たような状況でも、日本人にとっては哲学者カミュの考えより理解できる言葉である。

 

第269回「独学のわな」(2024年2月18日)

試験シーズン真っただ中.だが、志望校に合格するためには、独学がいいのか予備校に行くのがいいのかという問題がある。

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この問題は、陸上競技を親子だけで行うか、バンビーニのようなクラブに任せるかという問題と基本的には同じである。

陸上競技はリレーや駅伝を除いて1人で行うスポーツであるがために、このような命題が存在する。水泳は温水プールが必要でかつプール内で勝手に親がこどもに指導することは難しいため、クラブに所属する必要がある。

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その点陸上競技は一定の幅の一定のコースがあればいい。長距離なら海岸でも野山でも街中でもいい。親が大声出そうが怒ろうが、問題にならない。

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しかも、最近は有名選手・監督の著書が世に出たり、ユーチューブで練習方法が公開されたりしているので、指導方法に悩むこともない。また、それを教えるのに特別な奥義や秘儀といったものがないスポーツでもある。すなわち、長距離なら教えるのに見本を見せる必要はない。ストップウオッチ1つあればよいので、誰でもコーチになれる競技である。

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だから、受験ではほとんどが予備校や塾に行かせるのに、陸上競技では親がこどもを指導する「独学」状態が生まれる。中には師弟関係ではなく愛犬を世話している飼い主のよう親もいる。微笑ましい限りだが、中学生になれば、学校のクラブ活動や成長に伴う「自我の目覚め」によって、親の切なる願望にもかかわらずその関係の多くは終焉となる。

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そこで、「独学」のメリット、デメリットについて、述べてみたい。

(1)メリットとして挙げられるのは

①費用面のメリット

独学で行なえば、費用面を抑えられる。バンビーニは6600円/月ほど会費かかる。親が指導すれば月会費がなくなる。

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②自分のペースで練習できる

クラブはコーチの決めた練習メニューで走らされるので、自分のペースでメニューを決められない。その点、独学であれば自分のペースで練習できるため、効率よく練習が進む。

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しかし独学の場合、無意識のうちに好きなメニューばかり練習してしまう傾向がある。苦手な練習方法は控えめになり、練習内容に偏りが生じてしまい、レースに大きな支障が出る。

③場所や時間にとらわれない

独学の場合、自宅周辺だけではなく様々な大会を経ていろいろなところで練習できる。また、クラブに通う手間がなく、時間に縛られることもない。

このように、いつでもどこでも好きなだけ練習ができる点は、独学の大きなメリットだ。まるでチョコザップのようだ。

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しかし、物事には陽と陰がある。

(2)デメリットもある

①体系的な練習ができない

練習は長期計画、年間計画、週計画、1日計画で構成され、欠点を修正し長所を伸ばす内容になっていなければならない。しかし、ユーチューブは分断の知識であって、掲載されている練習が全体を構成する1ピースとして位置づけされていない。

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また、独学の場合、不調になったときやラストで踏ん張れないなど難しい問題でつまずいても、自分の力で乗り越えなければならない。ユーチューブではその点を伝えるものがすくなく、そのため、解決策にかなりの時間を費やしてしまい、効率が悪くなることがある。

②テクニックが身についていない

予備校や塾では、入試に出やすいポイントを効率よく授業で教えてくれる。独学の場合は、その点が不足する。

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陸上競技でも同じで、独学の場合、大会で注意すべき点が理解されていないことがある。例えば、強化指定大会の600mは、最初の100mを短距離並みに出ないと集団にもまれてポケット状態になるから、ポイントは最初の100mであるといえる。しかも、この600mの種目は年に1回11月のチャレンジカップしかないのだから、独学では到底ポイントを知ることはできない。

③モチベーションを維持しにくい

独学は、支えてくれる人や叱咤激励してくれる人、一緒に走る人がいないため、孤独感が強くなる。こどもにとって練習は“修行“となってしまう。

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④親は24時間365日のコーチになってしまう。

粘着質タイプの親だと家に帰って来ても説教が続く人がいる。ご飯をこぼそうものなら「注意力が足らない。だから練習でも・・・」と小言を言われたらこどもは休まる時がない。

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私もこどもたちを叱るが、次に会うのは1週間後だ。お互い何を怒られ何を怒ったか忘れている。いいか悪いかは別にして、「1週間前のことはご破算」の関係だ。

独学はこどもを厳しく追い込みこどもに合った練習ができるが、ある面柔軟性に欠けもろい点がある。体系的な練習をするには、やはりたくさんのこどもを扱ってきたコーチのアドバイスが必要となる。

コーチと親の関係は車の前輪と後輪の関係だ。前輪駆動か後輪駆動かの違いはあっても、別々に動けば車は前に進まない。運転手であるこどもは困ってしまう。

コーチと親が一緒に夢を語り、目標を共有してこどもを育てれば、それこそ四輪駆動の車となり、こどもは安心して快適に運転することができる。

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 ランボルギーニウラカン LP610-4 Bianco Icarus/4WD

 

第268回「毒蛇の子は毒蛇」(2024年2月11日)

普段こども達を見ていると、多くの子は他人に影響を与えない“普通の子”だ。ところが学童という小さな集団でも、将来大人になって少なからず他人に影響を及ぼす恐れのあるこどもらが何人かいる。“嫌な奴”というのは育った環境の影響が大きいとずっと思っていた。しかし、実はその素養は生まれた時から持っていた。

「毒蛇の子は毒蛇」であって、小さな幼蛇でも生まれた時から毒を持っている。なぜなら、蛇毒は唾液(消化酵素)が変化したものだから、毒蛇の子は生まれたてのこどもでも毒がある。食べる物や成長するにつれて毒が生成されるのではない。小さいからと言ってあなどってはいけない。

 

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人間の世界では生物学的な毒を持つ者はいないが、嫌な性格はある面他人にとっては“毒”である。できれば関わりたくないのだが、社会のしがらみから付き合いは避けられないことが多い。

世界中にいる3000種類のヘビのうち毒蛇は650種類ほどだといわれている。ヘビは4匹に1匹は毒蛇である。

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この割合は人間の世界にも言える。しかもその毒の種類が蛇毒のように出血毒と神経毒の2つで分けられず、それぞれに違った特有の毒を持っている。

1人目は感情が抑えられないこどもである。

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学童ではトランプや曼荼羅というゲームをするがN男が入るとシーンとするくらい面白くなくなる。皆も心得ている。自分が負けるとあれがおかしいとか因縁をつけて感情を爆発させる。こども達はできれば入れたくないようだが、ここはどんな時でも差別を禁止している。

言い争いの時は相手がくどいと、臨界点を簡単に超えてしまう。そばにいれば、沸々と湧き上がる心の音が聞こえるので、臨界点を超えないよう相手をたしなめていけば爆発しない。

問題はゲームの時で、爆発する理由は負けたからなのだが、曼荼羅というゲームは勝っているようで最後の最後での大逆転がある。だから、爆発するのを事前に読み切れない。負けたとわかってから一瞬時が止まる。場がシーンとする。案の定ぶつぶつ言って目をうるうるさせる。20秒後相手を罵り始める。

こういう子が大人になればギャンブル症候群になる。なぜなら、勝ったらバラ色の世界にいるようで、楽しそうに自分の強さを語り始める。しかし、負けたら他人を罵倒する。この手の男は初めに勝たせて後で掛け金をじわじわとたっぷり取るヤクザの格好の餌食で、家族を不幸に導く恐れがある。

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負ければ爆発、勝てば俺は日本一賢い男だと自慢顔、この毒は多くのこどもたちを遠くに追いやってしまう。

2人目は、女の武器を自然と身につけている女の子だ。それは男を誘惑する女性に育つ可能性が高い。

男をたぶらかす女性になるのは、大人になる過程で、徐々にテクニックを身に着けていくものと思っていた。しかし、実際はそうではない。かわいいとか色っぽさというものを持っている女性は、小さいうちから持っていることがわかった。

A子はちょっと注意するとほっぺを膨らませ、顔を若干横に向けてすねる。慰めの声をかけると「うん、うん」と元に戻る。私は、ヴィトンのバックを買ってくれないとすねるホステスにバックを買ってあげる客となってしまう。

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また、A子は服の袖を引っ張って甘えたり、自然にボディタッチをする子であるが、この何気ない動きは、10年後、自分に好意があると男たちを勘違いさせてしまう能力となる。。

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時々顔を覗き込むようにして話しかけるときもあって、この子の存在感はさらに高まっていく。

大人になって、顔を覗き込むようにして話しかけると、自然と顔と顔の距離が近くなり、距離を縮めたいという女性からのアプローチだと男たちは大間違いをする。

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このような行動が自然と取れるA子は銀座のクラブでもNO1になれるに違いない。こうして男たちはA子の毒で消化されていく。

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紙面の関係で詳細は省くが、この他意地悪な子や計算高い子、無責任な子など大人になったら大変な毒となりそうなこども達が、学童には1/4ほどいる。

毒蛇に咬まれたらどんな動物でも死に至るが、咬まれなければマングースやヘビクイワシのように、胃の中の強烈な胃酸で消化できる動物がいる。人間の胃酸もマングースと同じくらい強いので、毒のある人間とつきあうには、時に丸ごと飲み込む勇気が必要である。中途半端に腰を引くと咬まれる。

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毒蛇に咬まれても血清で助かるが、社会で毒のある人間に咬まれたら、血清はない。あえて解毒剤を探すとすれば多くはお金となる。くれぐれも注意しなければならない。

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第267回「嫌な予感」(2024年2月4日)

「嫌な予感」は、当たる確率が高い気がする。

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陸上競技のスタートで出遅れた子は、もしかすると期待しているタイムで戻れないのではと思った瞬間、選手は苦しい顔になり、重い身体を引きずって走っているような場面に何度も出くわした。その点ノー天気な子は嫌な予感がしないせいか、悠々と走り切っているように見える。

物事に対する経験値が上がってくると、その経験則から、「なんとなくこういうことが起こりそうだな」という予想ができる。事前にそういう予想ができていると、実際にその物事が起こった時、「やっぱりこうなった」と感じる。投資でももうここまで上がっているんだから落ちても当然だよなと思うと下がり、さらに心配するとつるべ落としで下がることがある。

基本的に、人間は過去の嫌な体験を、良いことよりも記憶として残しやすいようにできている。

そのため、同じような状況に置かれると、「また同じ事態になるかもしれない」と無意識の防衛本能が働き、記憶が「嫌な予感」として呼び起こされる。

嫌な予感に囚われるとは、神社のおみくじで「大凶」が出ることばかり心配するようなものだ。そうならないよう私は絶対におみくじは引かない。

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この「嫌な予感」は「決められた未来ではない」のだが、嫌な予感を信じてしまう。

過去に「嫌な予感」が当たったことがある場合、その経験ばかり心に強く残るので、予感が当たると「ほら……!」と、神がかり的な力に触れたかのように感じるときがある。

予感が当たらないこともたくさんあったはずだが、それは忘れている。

道に迷い、休める場所を探していた時、洞穴を見つけて「これで休める」と飛びこむ動物と、反対に「捕食者がいるのじゃないか?」とネガティブな想像をした動物がいた場合、慎重な後者のほうが生き残れる。それが我々の祖先だった。祖先がネガティブに考えてきたからこそ、人類は今まで生き延びてきたのだ。

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 嫌な予感がするのは、その時に自己防衛本能が働いているからで、目に見えない不安から自分を守るために、嫌な予感としてシグナルを送っている。現実的に悪いことが起こったとしても、自己防衛していれば衝撃は軽減されるはずだ。アメラクでタックルされるぞと覚悟していれば怪我はほどんどないが、無防備な状態でタックルされると大怪我することがある。それと同じだ。

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また、ネガティブな気持ちになると、必然的に行動や思考パターンもマイナスに傾いてしまう。マイナスはプラスよりも引きが強いので、嫌な予感を感じると心理的にマイナスに引き寄せられて、負のスパイラルを生んでしまう。予感が実現するのは、無意識に自分を誘導しているからかもしれない。

「マイナスはプラスより引きが強い」というのは、例えばトラック競技の長距離で3mの風が吹いているとき、選手はトラックをグルグル回るのだから風の影響は±0だという人がいるが、選手は追い風の効果より向かい風の抵抗がより強く感じて、記録はたいてい悪くなるというのと同じだ。

良い出来事であれば、突然起きても何も困ることはない。大事なのは嫌な予感がしたあとだ。

高校野球の監督がピンチで「嫌な予感」がすると言って、2番~4番を続けて敬遠したらSNSは炎上してしまう。

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 嫌な予感は決められた未来ではないし、当たらないことも多いから、たまには無視して冒険することも必要だ。端まで行くと落ちてしまうという当時の常識であった地球平面説を無視し、地球球体説を信じたコロンブスがアメリカを発見したように、若い人は嫌な予感に立ち向かうことがあってもいい。

長い間こどもと接していると、まれに変わった子が現れることがある。バンビーニのE男はそもそも嫌な予感を持っていない。この子のようなタイプの人間は、捕食者に食べられてしまうかもしれないが、黄金を発見する男になるのかもしれない。

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胸騒ぎがしてきた。

E男が中学生になると、うちの絶対エースのA男に勝ってガッツポーズを取り、どうだといわんばかりの顔で私の周りをぐるぐる歩き始めるような「嫌な予感」がする。

 

第266回「プラセボ効果」(2024年1月28日)

陸上競技の練習にはインターバルやレぺティーションなどメニューが豊富であるが、この他に隠し味としてメンタル面でのテクニックがある。

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医療の世界では、自分や他者が持つ信念や期待が、身体的な症状や治療効果に影響を与えることが知られている。

例えば、患者に対してランダムに選んだ薬を渡して、「この薬はあなたの痛みを和らげます」と伝えると、患者はその薬の成分に応じて回復した。しかし、実はその薬は本物の薬ではなく、偽薬(プラセボ)だった。

この実験からわかるように、「この薬は効く」と信じられた患者は、「私は回復する」という自己イメージを持ち、「私は痛みを感じなくなる」という期待を抱いた。そして、その結果、「痛みが和らぐ」という反応が起きたのだ。心理学ではこれを「プラセボ効果」と呼んでいる。

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陸上競技でもこのような効果をもたらす練習をしたことがある。

昔、高校生を指導していた時、関東大会が近くになったが、なかなか調子の上がらなかった女子選手がいた。この子を東京都の陸上競技場(ナイター)に連れていき、800mのタイムトライアルを行った。昔なのでタイムはベストが2分21秒くらいだっただろうが、東京都では常に上位3人には入っていた。しかし、なかなか20秒を切れず悩んでいたのだった。

その日、ストップウオッチは同じものを2個用意した。細工していないものは本人がわかるように大袈裟に押した(実タイム2分20秒25)。もうひとつは腰の後ろで細工した。スタート時に押すのを遅くしゴール時には早く押した。本人には細工したストップウオッチを見せた。タイムは2分18秒12で、皆で大喜びした。不思議とこれ以降細工なしに、すべてのレースで18秒台を出しインターハイに出場したのであった。

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このタイムは速すぎればこどもが疑う。こどもが信じ得る適度なタイムになるよう押さなければならない、このさじ加減がコーチのテクニックであった。

だが、現在はこの方法が使えない。小学生でも時計を持っており、タイムトライアルではその時計のストップウオッチ機能を押して走っているからである。もう選手を騙せない。

昔と違って「素の練習」をしなければならないので、プラセボ効果という大きな武器を失った。

昨年、バンビーニには実力があるのにもかかわらず記録を出せないこどもがいた。この子らの問題は練習量が不足しているわけでもスピードがないわけでもない。大会でピストルが鳴った瞬間に、強化指定選手への期待の風船が心の中で割れてしまう。だからスタートして100mもいかないうちに可愛い顔が苦痛の顔に変わり、鉛が入った着物を重ね着しているような走りとなる。練習のように走れば余裕で強化指定記録を切れるのにである。

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理由が何かは聞いても言わない。あなたに言っても私のナイーブな気持ちは理解されないと思っているからかもしれない。

プラセボ効果を利用できない最近の環境下では、ピグマリオン効果に期待するしかない。

教師や親などの大人が子どもに対して持つ信念や期待が、こどもの学習成果や能力に影響を与えるといわれているのが「ピグマリオン効果」だ。

有名な実験は「教師に対してランダムに選んだ生徒たちが“将来有望な生徒”と伝える(実際の能力は普通以下)と、教師はその生徒たちに対してより高い期待を持ち、より積極的に指導したり励ましたりした。その結果、その生徒たちの学力テストのスコアは他の生徒よりも高くなったのである」

この実験からわかるように、“将来有望な生徒”と信じられたこどもたちは、「私は頭が良い」という自己イメージを持ち、「私は頑張らなければいけない」と思うようになった。そして、それらに基づいて勉強に取り組んだ結果、「頭が良くなった」のである。

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自分は成功すると思う人は成功しやすく、失敗すると思う人は失敗しやすくなることなどがある。学童でじゃんけんを毎日見ているがいつも勝つものと負けるものとが決まっている。

バンビーニでも運命じゃんけんというじゃんけんゲームをさせるが、勝つぞと思っているこどもが勝つ。 

ピグマリオン効果は教師も騙しているが、私は騙されている教師以上に「その生徒たちに対してより高い期待を持ち、より積極的に指導したり励ましたり」してきたが、選手をその気にさせるテクニックが欠けていたのだと思う。

だから、今後は優秀な選手は皆の前でほめ、親にも才能を説明する。そうするとその子はもっと努力し、学年が上がるにつれて自分が他人より速く走れることを認識していくと思う。

実力があるのにその能力を引き出せないのは指導者の責任だ。

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第265回「言われてみれば」(2024年1月21日)

「自分では気づいていなかったが、今あなたが言ったことを考えてみると・・・」というのが「言われてみれば」という言葉の意味だ。こどもの世界に飛び込んでいると「言われてみれば」をたくさん経験した。

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大人同士では聞き違いが多く発生するが、それも「言われてみれば」の一例である。バンビーニのR男が友達と卒業記念でディズニーランドに行った。家内からその話を聞いて「えつ。ニュージーランドに?最近のこどもは贅沢だなあ」と言ったが、家内はニュージーランドがディズニーランドと聞こえたらしく至極当然にうなずいていた。後で私がディズニーランドだと気がついたが、お互いがたすきがけで理解しているため何も問題が起きない。こうして年寄り同士の会話はいつも柳の木のように柔軟に流れていく。

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ディズニーランド

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ニュージーランド

こどもだから言葉についてけれんみがない。間違ったことを恥ずかしいとは思わない。「だって習ってないんだもん」の理屈である。

国語のドリルに漢字問題があったが、私に質問してきた。「両手をあげる」「中身がもんだい」であったが、S子はそれぞれ「上げる」「問題」と正解を書いていたが、彼女の疑問は文章の中身であった。

「両手をあげたら障害者になってしまうのではない?移植手術のこと?」

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「中身が問題ばかりある本のこと?じゃ、ドリルのこと?」

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単文問題だからS子のような疑問は生じる。考えてみれば、そうも取れるので決して突拍子もない疑問ではない。

こどもは悪気がなくても「くさい」とか「あっちに行って」とかいう。時々意地悪な面が出る。しかし、人を見るのか、女教師や若い教師には決して言わない。遊びの時間のそれもふざけるときに私だけにほざく。私が学童で地位の低いものだと理解しているからであろう。ふざけることに度が過ぎると頭やお尻を叩くが、その時決まって「暴力をふるうとS先生(マネジャー)に言うよ」と言うことからわかる。「ああ、言ってみろ。なぜ叩いたか理由をS先生にじっくり説明するから」と言うと黙る。

 学童に勤めるということは、こどもの残虐性を理解しどう対応するかがポイントだ。怒ってはいけない。いけないことを言っていることは当の本人が理解している。大人がどういう反応を示すのか探っているのだ。

とは言うものの、突然「イリはキモイ」と言われると一瞬カチンとくるが、逆にかまってほしいという意味なのだろうと思い、こう応える。

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「なになに『気持ちいい』ってことか、よしよしおいで抱っこしてあげる」

「違うよ、『気持ち悪い』ということだよ」

「おかしいな、『気持ち悪い』といいうことを短く言ったら『キモワ』だろう。『キモイ』というのは『気持ちいい』としか解釈できない。知らないの?」

といってそばまでいくとニコニコして逃げる。

ある女の子は目と目が合うと、手を下から上に振って「あっちに行け」という。

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この場合はその子のところに揉み手で寄っていく。

「何で来るの?あっち行ってと言っているでしょう」

「えっ?今来いという合図じゃないの?」

「知らないの?これはあっちに行けという合図でしょう」

と再び手を下から上に振った。

「いや違うよ。君は手を上から下におろしたでしょう。ということは一般的に来いということでしょう?」

「イリ、違うよ。イリは最初の動作を見てないからだよ。私は下から手を動かした。イリはその一瞬を見逃したから上から下におろしていると勘違いしたんだよ」

でもその後も私の主張のように見えるので寄っていくことにしたら、皆真似をし始めた。

マネージャーから見れば我慢できない行為と映ったのだろう。皆は注意された。

頭のいい子が下から上に手を動かし、最高点までいったら手を一瞬止めて同じ軌道で戻さずに、手をまた下から上にやる動作に切り替えたため私の主張は通じなくなってしまったからだ。

こどもとの付き合いは馬鹿にされたとか嫌われたかとは思ってはいけない。確かにそういうことはあるかもしれないが、彼らはほとんど翌日には忘れている。パソコンで言えばデーターを保存しないで電源を切っているようなものだ。明日になったら跡形もなく消えている。

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根に持つのは大人の悪い癖だ。

 

 

第264回「万有引力の法則」(2024年1月14日)

練習ではこどもたちをたくさん走らせる。

しかし、この練習の中で勝手に休んでしまうこどもがいる。

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以前からこどもの本能としての自己防衛反応から、手を抜くことは仕方がないと思っている。

行くぞと言ってスタートさせると嫌な気配を感じて後ろを振り向くと、そこには件(くだん)のこどもがいる。

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思っていることと言っていることとは違う。「何でいるのだ」と思わず怒鳴る。すまなそうにするが休むことは譲らない。ほめても怒っても動じない。「なぜ手を抜く」と詰問すると「足が痛い」という。足のどこが痛いのかというと「ふくらはぎだ」という。そのうち痛い箇所が足首に変わり太ももに変わる。気持ち悪いという体の中の不調を訴えるものもいる。「トイレで戻してこい」と送り出そうとするが、犬が腰を落として飼い主の行く手を妨げる行為と同じく体が動かない。

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本数が多いと確実に起こる現象で、200mのインターバルを10本やると1本はやらない。製造会社ではこれを「歩留まり90%」と呼ぶ。

*)歩留まり(ぶどまり)とは「投入した原料や素材に対する完成品の割合」や「生産数における良品の割合」などを意味する言葉。

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 2000mを4本やると「ラストはやるから3本目は休む」と駆け引きしてくる。これだと「歩留まり75%」になってしまう。トヨタなら製品として採算が取れない製造ラインとして、徹底的に「カイゼン」が行われてしまう。

練習の歩留まりは悩む問題だ。75%では練習の効果はなくなってしまう。

この子らをなんとか100%やらせることができたらもっと速くなるだろう。足が痛いとか気持ちが悪いとかいう訴えの背景を、徹底的に洗い出せれば、サボる言い訳はできないわけだ。サボるのは理由があり、その理由には生い立ちがある。コーチとしては、この10年間の歴史が知りたい。

ふとフロイトの「無意識の行動」が思い出された。

フロイトの患者であるエリザベートの例を紹介するとこうなる。エリザベートは原因不明の下肢痛のため歩行ができなくなった24歳の女性の例である。

義兄と結婚して幸せになりたいという、たわいもない願いが、姉の死によってにわかに現実味を帯び始める。義兄の妻になれるかもしれない、なりたいという本能的な願望と、姉の死をよろこんではならないという道徳意識に挟まれて、エリザベートは苦悩する。

エリザベートは以前父親の看病で足の包帯を取り換える際に自分の太ももに足を置いて取り換えた。その際痛みを発症したという。フロイトが事情を聴くと、初恋の友人とデートして楽しい気分で帰宅したら父親の病状が悪化していた。自分が父親の看病を怠けて、男性とデートをして遊んでいたから父親の病状が悪化したのだという『罪悪感・自責感(自罰感情)』が、右足の痛みへ転換されたと推測した。

義兄との恋はさらに強い罪悪感の中で、願望を無意識の中に閉じ込め、意識の外に追いやることで自分の心を守ろうとした。義兄と2人で散歩した時の楽しさが足の痛みを悪化させ、散歩できないほどの痛みを生じさせていた。

その後、フロイトの催眠療法によって、エリザベートが秘密の告白をすることで、脚の痛みは改善していく。(フロイトのヒステリー研究より)

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 足が疲れたから痛いのか、痛いから疲れたのか、因果関係はわからないが、走らない子は必ずいる。一方、走ること練習することを真剣に考える選手は、ニュートンの万有引力発見と同じレベルに自分を引き上げている。

ニュートンはりんごが木から落ちることで万有引力があることに気がついた。それは地球物理学に専念し、来る日も来る日も考えていたからである。

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だからと言って、同じように来る日も来る日もりんごを見ている青森の農家のおばちゃんが、りんごが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」に気付くことはない。「早くしないと全て落ちてしまうから、りんごを取り込もう」としか考えないからだ。

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真剣に物事を考えるかどうかはその道を究めるかどうかにつながる。練習をこなすことに専念する子は、今はサボる子に負けているが中学生になったら必ずクロスポイントが来る。そこで一挙に形勢は逆転する。そして、カローラを置き去るポルシェのようになる。そういう子を何人も見てきた。

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第263回「ローテーション」(2024年1月7日)

バンビーニのこどもたちは親子マラソンに出ることが多い。強くなると、さらに回数が多くなる。

うたぴょんはユーチュブで有名だが、親子マラソンの他小学生の大会も出ているので、昨年は年40回以上の大会に出たそうだ。バンビーニに入会したころは、ライバルの子がたくさんいて最下位が多かった。それが今では大会で優勝することが多くなった。

これは1年間父親がうたぴょんにいろいろと工夫をして走ることに興味をもたせ、かつ一緒に走ってきたことの賜物だ。入会当初に比べて精神面で強くなった。当時は鼻をたらして泣いて走っていた。忍耐力がつき、目標を達成する喜びを知ることができたのだろう、最近は笑顔の時間が長くなった。もともとラストスパートには定評があり、“諦めない心”を持っている。あとはスタートダッシュだけが課題だ。

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一方、うたぴょんほど大会には出ていないが、たまに一緒に走ることで親子の絆がよりいっそう深まっている例がある。

長距離は日ごろ練習していない大人より、練習しているこどもの方が速い場合がある。そんなこどもにとっては「お父さんより僕の方がすごいぞ!」という自信になる。親も少しくらい子どもにダメなところを見せたほうが、親子の信頼関係が確立する。父親の威厳を示すことも必要な場合もあるが、素(す)の自分を見せることも決して悪いことではない。

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だから、強いこどもに進化していくし、親子の関係を深める効果もあるので、親子マラソンを控えたほうがいいとは言えない。しかし、あえて嫌われごとを言うと、それも3年生までで4年生以降は修正が必要だ。

すぐ競走馬の話につなげる悪い癖があるので、時々読者から顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうが、競走馬には「ローテーション(レース間隔)」というものがある。

暑さで疲れが溜まりやすい夏競馬では、適度に間隔をあけた方が好走に繋がる。最もレース間隔が詰まる「連闘」(毎週出走すること)は、単勝回収率42%、複勝回収率62%と、かなり低い。対して、5~8週の余裕のあるローテーションの馬は、単勝回収率77%、複勝回収率80%と、明らかに連闘の馬よりも期待値が高くなる。

*)単勝回収率とは「「単勝に賭けた金額のうち、何%を回収したか?」という比率で、「単勝を1万円購入して、払戻金が8000円だったら、単勝回収率80%となる。ちなみに演歌歌手の北島三郎が所有した「キタサンブラック」の生涯単勝回収率は614%であった。

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そもそもなぜ競走馬は1ヶ月に1回しかレースに使わないかって言うと、それぐらいにして休ませてあげないと、疲れで怪我したり、ストレスで病気になったりする事が経験則で分かってるからだ。中には悪い馬主や調教師もいて、馬に本気を出ささずに疲れないようにして、毎週毎週レースに出走させて勝つ気も無いのに、出走手当(49万円/回)だけもらおうとする輩もいる。

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ただ、埼玉のヒーローである川内選手は「マラソン大会出場が多いですね」というインタビューに次のように答えている。

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「多くの日本のエリート選手は、マラソンに出なさ過ぎだと思います。私のように年12回(12年かすみがうらマラソン~13年長野マラソンまで)は多過ぎるかもしれませんが、海外選手では年3~4回出場している選手も多くいます。

マラソンは「経験のスポーツ」だと思うので、実戦でなければ学べない部分も多いと思います。年1~2回のマラソンでは、はまれば“速く”走れるかもしれませんが、さまざまなレース展開に対応できるような“強さ”は、なかなか身に付かないのではないでしょうか。なぜなら、マラソン経験が積み重なった時には年齢的にピークを過ぎてしまい、経験を生かすための身体的能力を失ってしまうと考えているからです」

かつて陸連のマラソン強化委員長の瀬古利彦氏の誘いを断り、1人練習に徹していた。もし瀬古門下に入っていればオリンピック選手になっていたかもしれない。瀬古コーチの指導によれば、マラソンの出場回数は減らされ、目指す重要大会に調整する能力をみがいていただろう。

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オリンピックは4年に1回しかない。それにピークをもっていくのは並大抵のものではない。しかし、埼玉の小学生は年3,4回の公認大会がある。1回ダメでも残り2,3回の大会で標準記録を切ればいい。プレッシャーはオリンピック選手に比べれば少ないはずだ。非公認の大会で記録を出しても意味がない。

毎週のように大会に出ると調子の合わせ方がわからなくなる。4年生からは目指す大会に調子のピークを持っていけるようこどもを指導しなければならない。そのためには大会の間隔をあけて出場することも必要だ。

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「1000mぐらいなら、毎週大会に出てもこどもに負担はない」と言いきった保護者がかつてはいた。その人はこどもを自分の競走馬のように考えていて、大会にたくさん出てメダルをもらうことに自分が喜びを感じていた。大会の1000m走は「真剣勝負の全力走」だ。剣道で言えば「竹刀や木刀での稽古」と「真剣での決闘」との違いだ。緊張感や疲労感が異なる。今から思うと、出走手当をもらって満足している、しがない馬主のようだった。

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3年生までは親子関係を深耕するためにも思う存分大会に出てもいいと思う。しかし、バンビーニのこどもたちは才能も実力もある子が多いのだから、4年生になったら目標の大会に向かっての準備の大切さを学ぶべきだ。浦和競馬場や大井競馬場で1位になっても、東京競馬場の日本ダービーで優勝しなければ、サラブレットとして生まれてきた意味がない。

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第262回「こどもお笑い劇場」(2024年1月1日)

昨年もこどもとには驚かされることが多かった。大人では考えられない行動をとったり、予想外の答えが返ってくるからだ。これがまた楽しみの一つでもある。

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こどもは大人の顔を覚えるのに覚えるポイントがあるようだ。私の場合、頭に毛がない、マスクをしている、眼鏡をかけている人間ということになる。眼鏡をしないで学童に出勤しようものなら「なぜ今日は眼鏡をしないの?イリじゃないみたい」と聞いてくる。皆が聞いてくるものだから、面倒になって、100円ショップの予備の眼鏡をかけると、今度は形が違うためか「いつものやつはどうしたの?」と畳みかけてくる。マスクと眼鏡は私という存在を認識するためには欠かすことができないパーツのようだ。

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以前シングルマザーの母親に対して“自己紹介して!”と私に迫った女の子や、「イリは家で1人で食事をするの?」と聞いてきた女の子がいたが、なぜそんなことを聞くのか不思議だった。同じ場面に遭遇した時、思い切って女の子に聞いてみた。そうしたら「指輪がないでしょ」と言われた。こどもの発想では既婚者は指輪をしていることになっているようだ。

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指輪がなければ恋愛や結婚は自由だ。彼らの中では年齢を超越した世界がある。そこには道徳観や未来志向といった打算などはない。指輪だけが人間を仕分けする。

家内と結婚した時、「太って指輪が取れなくなったら困るから結婚指輪はやめようね」と話し合った結果なのだが。

 ある日、1年生のA子とトランプをした。いつも通りコテンパンにやっつけた。私は遊びで手加減はしない。

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泣き出した挙句「イリなんて大嫌い」と言い放った。こういう時は慌てないことだ。その場を取り繕うとすると、かえって火に油を注ぐことになる。ましてやマネージャーの目を意識してはいけない。どっちみち大袈裟になれば日報に記載されるので、事情徴収されるに決まっている。

「そんなに嫌なら、別れよう」

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咄嗟にそう呼びかけた。

「えっ?」

2,3秒経って

「何で?私とあなたはつきあっていないのよ?別れるも何もないでしょう?」

どうやら私の言葉はこの子のツボにはまったようだ。

「それなら、まずはつきあおう」

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「・・・何言っているの?別れるためにつきあうの?駄目よ、私には高橋なおき君という好きな人がいるの。わかる?・・・私を困らせないで」

と涙目が笑い目になってきた。

印西温水センターでのレッスン中、年長さんのS男が泣き出した。

「すわいじめか」と慌てた。

レッスンを中止にしてS男に

「なぜ泣いているの?どっか痛いの?それとも誰かにいじめられたの?」

と尋ねた。

S男はさらに大きく泣き、

「アリさんが死んじゃったの!」

と自分がアリを踏んでしまったことを嘆いて泣いた。

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「・・・う~ん、S男、わざと踏んだわけではないから神様はゆるしてくれるよ。人間はいつも下を向いて歩いていたり走っているわけではないからね。こういうことは、わざとではないが皆が犯している過ちだよ。ただ、気がつかないだけさ。さ、また走ろう」

印西でのあるレッスンの目的はこうだ。

腕振りの重要さを学ぶために、腕を上にあげて20m走り(腕振りしない)、コーチの号令とともに腕を上から腰に持っていき、腕を曲げて肘を後ろに思い切り振って残り30mを走る練習をすることにした。

目印の20mのマーカまで来たので「腕を振れ!」と大声を出したら、なんと皆が上にあげた手をそのまま左右に振りだしながら走り始めた。まるでコンサートの観客のようだった。一瞬何が起きたのかわからなかったが、なぜそのような行動をするのか意味が分かったら笑ってしまった。私が「腕を振れ」という意味をもっと詳しく説明すればよかったのだ。

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こども達はきっと今年もたくさんの笑いを提供してくれるはずだ。こどもの間違いを咎めるのではなく、なぜこのような反応をしたのかを考えるとその発想の根源がわかり、それが笑いを生む。ほとんどのこどもは意図的な失敗はしない。その真剣さがまたよりおかしさをもたらす。

こどもたちよ、今年もよろしく。

 

 

第261回「バタフライ効果」(2023年12月24日)

「バタフライ効果」は気象学者エドワード・ローレンツが1972年に行った講演『ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』から由来している言葉で、「非常に小さな出来事が、最終的に予想もしていなかったような大きな出来事につながる」ということを指している。

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彼の不思議な発見は、1961年のある日、簡素化気象システムをシミュレーションしていた時に起こった。同じ数式に同じ初期変数を導入しても、2つの異なる予報が導き出されたのである。同じ初期変数、同じ数式を用いるのであれば、導き出される解は同じはずなのだが。

入念に調べたところ、入力された初期値は、まったく同じ物ではないことがわかった。ローレンツが片方の数式に入力したのは、0.506127の端数を切り捨てた0.506だった。彼はそれで差異が生じるとは思ってなかったようだが、実際は問題が生じた。

しかも、2つの予報の差異は0.1パーセントにはとどまらず、シミュレーションの4日ごとに倍増し、1か月後には原型をとどめないほどの差異を生み出したのである。

小さな入力誤差(これを分かりやすく、一匹の「蝶」になぞらえている)が、全く異なる将来の予報につながったというローレンツ自身の経験をもとにしている。

 

彼は講演の中で「ブラジルで一羽の蝶が羽ばたく→その周りの空気に渦が生じる→その渦が上昇する→それが大きな風を起こす→海に向かった風が上昇気流をつくる→カリブ海に乱気流が生じる→テキサスで竜巻が発生する」ということが起こりうるとした。

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しかし、ローレンツのような考え方は日本ではとうの昔の江戸時代からあった。浮世草子の中に「風が吹けば桶屋が儲かる」というくだりがある。

「風が吹くと砂が舞う→その砂が目に入ると目が見えなくなり、盲人が増える→盲人は三味線の演奏者になる→三味線を作るには猫の皮が必要なので猫が減る→猫が減ったのでねずみが増え、桶がかじられる→桶を買う人が増えるので桶屋が儲かる」ということだ。

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このことわざの趣旨はローレンツとは異なり「一見関係のないようなことが、意外なところに影響を及ぼす」ということだが、

ローレンツは初期値の違いが、浮世草子の作者はきっかけの出来事が、時が進むにつれて大きな出来事になる可能があるとしている。最初の投入変数が重要だと言っていることには変わりはない。

もし、私が「バンビーニの練習は世界に平和をもたらすか」という表題で講演すると話はこうなる。

小さな陸上クラブチームであるバンビーニに入ってきたI男は、1年生の時泣きながら走っていた。しかし、6年生ではボクシングのマイク・タイソンのようにライバルを倒していくのに快感をもつまでに育っていた。そのI男が強化指定の先生の目に留まり、新しく開校する中高一貫の学校に誘われた。中学生では800m、1500mに中学新記録、高校では800m~5000mで高校新記録を出したのである。今度は青山学院大の監督に認められ、1年生から箱根駅伝に出場、驚異的な速さでケニア選手らに打ち勝った。

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それをきっかけにケニアやエチオピアのコーチが関心を寄せ、マラソンで2時間を切るのは君が最初だといわれて、トヨタや富士通などの有名企業からの誘いをことわり、ケニアのプロコーチと契約を結んだ。スピードがあり中長距離の二刀流でオリンピックに出ることも選択肢にあるとコーチに言われた。コーチのおかげでメキメキと力をつけていった。

プロのマネージメントによって、テレビ局や日本のスポンサーのほか中距離が大好きな欧米でもたくさんのスポンサーがついた。またI男の出る大会はいつも競技場が満席になるため、入場料の1%がキックバックとなる大会が多くなり、収入面でも過去最高の陸上選手になっていた。

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オリンピックではプロモーターによって、800m、1500m、5000m、10000mの4種目が間をあけた日程に調整されていた。こうしてI男はそのすべての種目に世界記録で優勝し、日本どころか世界中を歓喜の渦に巻き込んだ。昔の大谷翔平選手のようであった。

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帰国後はテレビのトーク番組で出会った女子アナと結婚。女子アナも昔は陸上の長距離選手であったので、2人のこどもは母系も父系も長距離のサラブレットとして、父親以上にもてる才能を開花させていた。

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この知名度を利用しようと、支持率が最低となった政府与党から参議院議員として立候補を依頼され、過去最高得票で当選し、結果的に政府与党の躍進に大いに貢献したのである。

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そのため、政治資金規正法違反で辞めた外務大臣の代わりに若くして外相に抜擢された。何しろ世界中で知らないものはいない大臣であるから、紛争の調停役としては適任であった。長年対立していたアフリカの部族紛争にもスワヒリ語が話せるI男の影響力は抜群であった。イスラエルの首相はイスラエル陸上連盟の会長で、よく知った間柄であり、アメリカや欧州からイスラエルで問題が起きると必ずI男に依頼が入った。こうしてI男はノーベル平和賞をもらうほどになったのである。

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これが、「バンビーニの練習は(I男を育て、I男の知名度と人柄が世界の国々に影響力を与え、)世界に平和をもたらした」というバタフライ効果である。

 

第260回「ミクロの世界」(2023年12月17日)

コロナが終わったと思ったら、今度はインフルエンザだ。

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先日1年生が学級閉鎖を通り越して、学年閉鎖になった。学校閉鎖になると私は働く時間を失う。なにしろ身分はアルバイトだからだ。

学童はコロナの規制緩和後も体温チェックは続けている。コロナの時からなので、手動からカメラ付きのセンサーに代わった。ここで37℃以上になると手動の検査をおこなう。37.5℃以上で保護者に連絡、引き取りに来てもらう。その間1,2時間隔離する。かわいそうだが他のこどもに移らないようにするためだ。冷えビタをおでこに貼って、言われるまま1人で本を読んでいる姿がいとおしい。

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一方37.5℃未満の子は隔離がないし親も呼ばないので通常通り遊んでいる。ただし、要注意人物として監察対象になる。

咳をする子、熱のある子、鼻水を垂らす子がいるので非常に気を遣う。こどもはいつも通りそばに来て話しかけてくる。息を止めて話をするが、さすが4時間は息を止められない。傷つけないようどう振り払うかがテクニックである。

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こどもは友達が咳をしていても平気でじゃれあっている。私のように逃げるような薄情者ではない。だから1人がインフルエンザに罹ったら皆罹ってしまう。

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コロナはワクチンを7回もしているので安心しているが、インフルエンザはまだ2回の予防接種しかしていないので、罹らないよう移さない強い意志が必要だ。バンビーニのこどもたちに移したら大変なのでワクチンは打つようになった。実を言うと、インフルエンザの予防接種は、大人になって打った記憶がない。

さらに面倒なことなのだが、この学童は食中毒を予防するため毎月1回検便がある。便でわかる検査をすべてやってくれるなら健康管理の面でありがたいのだが、腸管出血性大腸菌(O-157等)とノロウィルスだけが対象だ。学童は無駄なことはしない。

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アレルギーの子が学童に2人いる。彼らに対してすごく気を使っている。おやつのお菓子は必ず事前に成分チェックをする。アナフィラキシーショックなどが起こっては大変だからだ。

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おやつやの時は「このお菓子はI君とT君は食べれません」と全員に必ず注意する。特におやつは「くるみ」「ナッツ」「アーモンド」の入っているものがアウトだ。2人は木の実アレルギーなのだ。でも、みんなの好きなお菓子には木の実類が多い。食べ終わったお皿を返却する際、その子らと話込むこともあり、アレルギーのあるお菓子のカスをこぼさないとは限らない。よって、おやつのときは2人に近寄ることは禁じている。間違えないように2人のお皿は皆と色分けしている。

脱線するが、私の息子(大人だが)は「果物アレルギー」で果物を食べるとかゆくなるので、果物やゆずの入った漬物は食べない。最近宴会で鶏のから揚げにレモンをかける女性がいて、食べれなかったと怒っていた。農林水産省によると、2年以上栽培される草本植物(草)や木本植物(樹木)で、果実が食用となるものを「果樹」と呼んでいるそうだ。桃や栗、柿、りんごなどの、木になる食用の実は果樹であるのに対し、1年以内で収穫される草本植物、メロンやスイカ、いちごなどは農林水産省の基準では野菜に分類されている。ところが息子の体内センサーはメロンやスイカは果物なのだ。

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ただ、息子には不思議な現象があり、どんなに甘くてもフルーツトマトは息子にとっては野菜そのものでうまそうに食べる。またワインは赤でも白でも飲める。果物アレルギーの“果物”はどうやら農林水産省の基準では推し測れないようだ。

こどもたちは目に見えないインフルエンザやアレルギーは自分らではどうしようもないが、私には見えない”蚊”についてはどうどう退治する。

こどもはハエを怖がるのに蚊は平気だ。小さいからだろうか。私に退治を依頼するが、私には蚊は見えない。羽音が聞こえない。ハエは見えるし動きも蚊に比べると予測しやすいので捕虫網で取り、外に逃がす。昔はハエたたきで完膚なきまで叩きのめしたのだが、今はハエの数が少なく、こどもの前でそのような事態を見せるのはいかがなものかと思うようになっている。歳だろうか。

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カードゲームをしようと言ってきても、蚊ほどではないが、文字が小さく見えない。いわれるままやるので面白くない。人生ゲームも盤に書いてる文字が見えない。いくつ進むのかいくらもらえるのかこどものいいなりである。

しかし、彼らが全部を読みこなしてゲームをしているとは思えない。彼らは何かをキーワードとして把握しているのだと思う。

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私にとって、蚊も人生ゲームもよく見えないのでウイルスやアレルギーと同じだ。こどもには様々なミクロの世界が覆っていて、この世界を克服しないと彼らとうまくつきあえない。

 

第259回「もうはまだなり」(2023年12月10日)

相場の格言に、「もうはまだなり、まだはもうなり」という言葉がある。

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これは、例えば株式相場において株価が1000円から1200円に上がり「もう」ここが天井だと思って売却したら、「まだ」上がって1500円になってしまい、300円儲けそこなったという状況のことだ。反対に、「まだ」下がると思って株価1000円でも購入を見送ったら、「もう」それが底で後はどんどん上昇し1300円で購入するはめになって300円儲けそこなったという事態のことを指す。

つまり、相場転換のタイミングに独善的な判断は危険であるということを説いたものだ。

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「さ、もう陸上はいいだろう。これからは勉強だ」と春先さっさと陸上競技を見限って受験勉強でこどもをやめさせた保護者が何人かいた。プロの陸上選手があまり育っていない日本では陸上で生活できないことはわかっているが、才能をやすやす放棄する姿勢は、才能がなかった息子を持つ親として残念でならない。

戦後復興の時は日本人のほとんどが夢と希望を持っていた。貧しくても明るい未来を予想した。現代社会は難しく、戦後のような誰でもトップに立てるという時代ではなくなった。英語やPCを駆使しなければ出世もできない環境の中で自分のこどもに「普通の生活」をさせたいのはわかるが、こどもにとっては迷惑かもしれない。

自分のこどもの能力を判断する際、「もうこんなもんだろう」と過小評価するのは10歳でこどもの成長をとめてしまう。陸上を続けたらもしかしてオリンピック選手になれるかもしれない。「もうはまだ」なのである。こどもを守るのは保護者の役割だが、成長させることも保護者の責任だと思う。

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しかしながら、いつまでも才能のないものにお金とエネルギーを注ぎ込むのもよくない。この場合、相場では「見切り千両、損切り万両」という言葉がある。

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損失が少ないうちに見切りをつけることは千両の価値があり、ある程度覚悟を決めて大きく損切りすることには、万両の価値があるという例えだ。また日は上ると信じて長く株や国債などを持つとさらに損失額が増えてしまうので、その前に損失を確定してしまうのだ。それが損失を最小限にとどめることができる。

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大学生まで陸上競技を続けても、残念ながらいつの日か見切りをつけなければならない日が来る。陸上競技の選手のほとんどがそうなるのである。

この他、相場には「人の行く裏に道あり花の山 いずれを行くも散らぬ間に行け」という格言がある。

この句はそもそも千利休の和歌なのだが、相場の格言に利用され最も有名な言葉となっている。

この名言は、2つに分けて考えることが出来る。

まず「人の行く 裏に道あり 花の山」という上の句は

花の山、つまりきれいな花を見たいのであれば、人が大勢歩いている表の道より、裏の道を行くべきである。言い換えると、花を本当に楽しみたいのであれば、人が通らない裏の道を通るべきであるということだ。

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また、下の句の「いずれを行くも 散らぬ間に行け」とは、表の道を行くにしても、裏の道を行くにしても、花が咲いている間に行かなければいけないというのだ。

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この句を相場を前提に読み替えてみると、上の句は相場で儲けるのであれば人と同じことをしていてはダメ、むしろ人と逆の投資行動をとるべきであるという意味になる。また下の句は、順張りをするにしても逆張りをするにしても、利益が出るうちに売買するべきという意味になる。

千利休が詠んだ花を陸上競技に当てはめてみると

「陸上競技でトップに立つには人の何倍もの練習か鋭意工夫した練習を人知れず行わなければならない。皆に人気のあるドリルや派手な道具などにとらわれ過ぎてはいけない。また、小学生のうちに行った1つの種目(たとえば100m)にこだわらず成長するにあたってふさわしい種目を探すことも必要だ。それも体力も向上心もあるうちに選ぶことが必要だ」

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相場格言は陸上競技においても響くことが多い

 

第258回「かけっこ教室」(2023年12月3日)

土曜日にある“かけっこ教室”は印西温水プールで行われる。スポンサーが印西市であるためバンビーニのHPでは詳細を書けないので、クラブ便りには掲載していない。

ここでは本格的な陸上練習ではなく、“かけっこ”という走ることの初歩を教えている。だから初級は年中(4歳児)から募集し、3か月単位としている。

最近悩んでいるのはリピート客が多くレッスンがやりづらくなった。「皆、かけっこで重要な点は何だと思う?」と質問して「足に決まっている」という言葉が出た後に「実は・・・」と正解を言って「おー」とショックを与えるのであるが、リピーターのこどもがすべて答えてしまうためレッスンがやりづらい。こどもは決して遠慮とか気配りの感情はない。

“走り始めのこども”相手だから困ってしまうことが多い。バンビーニとはまったく違う景色が展開される。走るためのアイデアがつかめればいいなあと思いこどもたちと接している。私が小さいうちから練習すべきだという考えを持つようになったのも、ここでの経験が影響している。

走り始めるこどもの特徴は次のようなものが多く、例年変わりない。正しく走ることができていないのだ。印西温水センターは走り方を書くのはいいが、どう直すかは言わないでほしい(「かけっこ教室」に来て直してほしい)といわれているので、ここでは実態のみを紹介する。

写真の児童は、私の説明がわかりやすいように“友情出演”してくれたバンビーニのこどもたちです(決してここに書かれているような走り方はしていません)。

(1)スタート

スタートのい構えを教わったことがない。

1.「位置について」というと、スタートラインに行くが、どうしていいかわからない。

→「気を付け」だよといわれてわかる

2.「用意」というと構えができない

・手がぶらぶら

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・出している足と同じ側の手が出る。

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3. 両足の開きが大きい(後ろ足が伸び切っている)

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4. ゴールを見てしまって下を見ない 

5. 「よーいドン」で顔を上げてしまう。出航と同時に帆をあげてしまう船のようだ。

6. ケンケンができない。スキップができない。ジャンプができない。

(2)腕振り

①腕を正しく曲げて走れない。

多くは手を伸ばす。腕を横に振る。脇が空くなどのケースが多い。舎人公園陸上競技場でも高校生が走っているのを見るが、同じように走っている子がいる。学校の先生はなぜ直さないんだろうと不思議に思う。手を伸ばして走る、幽霊走り、グー走りなど

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➁首を振る。または顎を上げすぎる(ゴールを見てしまう)。

人間は猿と違って項上筋があり姿勢を一定に保つので二足走行ができるのだが、それを使っていない。

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(3)走り方

①目がいろいろなところを見る

獲物を追いかけるとき目線は獲物に注いでいないと逃げられる。こどもたちは保護者を見たり仲間を追いかけたりする。

②速く走る必要がないから“速く走れない走り方”を身に着けている

   1.モモを上げることを教わらないのでちょこまか走りする。 

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  2.ゾウさん走りをする(足底全部を使う)

  3.忍者走り

   この走りは敵に知られないため音を立てない走り方のため、地面をしっかりけっていない

(4)足の構造の問題

X脚、O脚のこどもがいる。極端なこどもはドナルドダックの子がいる

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(5)長距離走

40mのコースを3~5往復させるのだが、口を結んで走る。口を開けて走れない。口呼吸は人間がもっている最大の特徴なのだと説明してもダメである。ましてやここ2.3年のコロナ下ではしかたないかもしれない。

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(6)その他

①コーチの話を聞かない

昆虫などがいると関心はそちらに動く。だから自分の順番が来ても指示通り走れない。聞いていないからだ。大概は直前に行っていた運動を繰り返す。

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よって、小さいこども達に長い説明は無駄である。残念だが30秒が限界である。それ以上の時間がかかる説明の時は話を2つに分けなければならない。それも間隔をあけなければならない。

②出しゃばりな子

決してすぐれた運動能力があるわけではないが、目立ちたがる性格なこどもが、いつも先頭に立つ。当然この子に運動の説明をして走らせるがうまくいかない。皆この子と同じようなところで失敗する。残りのこどもは先頭の子の行動をまねする。正しく走れる子が「失敗した技」を披露するから「滑稽」でもある。これじゃなかなか進まない。かといって保護者が2mほどのところにいるので、無下に後ろに行ってくれとはいえない。

 

走る原点の教育もまた難し。

 

第257回「かかりつけ医」(2023年11月26日)

陸上競技のコーチには、いろいろなレベルの者がいる。コーチを医者に例えて言えば、私はたたき上げのスキルをもったドクターXでもなければ、独自の理論を持った医学博士でもない。強いて言えば「かかりつけ医」である。

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高齢化社会を迎えるにあたって厚生労働省は「地域包括ケアシステム」の構想を持ち、「かかりつけ医」制度を推進している。

医療システムにおいての「かかりつけ医」は一般的な病気の診察や治療を、「大学病院」は専門の治療をする役割分担を明確にし、互いに協力し合って質の高い医療を提供できるようにしている。紹介状もなく大学病院に行くと5000円特別料金が取られるなど厳しく運用して制度の定着を狙っている。

 北里大学病院のパンフレットには「かかりつけ医」について次のように説明されている。

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「かかりつけ医とは、患者さんの生活背景を把握し、日常的な診療や健康管理等を行ってくれる診療所やクリニックなどの身近なお医者さんのことです。身近な「かかりつけ医」を持つことが安心への第一歩に繋がります。

かかりつけ医を持つメリット

患者さんの病状、病歴、健康をよく知っているので、円滑に対応してくれます。

比較的待ち時間が短く、日頃の健康状態を含め診察してくれます。慢性的な病気の患者さんにとっては、継続した治療を受けやすくなります。

食事や運動など、日常の健康管理のアドバイスが受けられ、新たな病気の予防にもつながります。

入院や高度な設備での治療や検査が必要な場合は、適切な専門医や専門医療機関を紹介してくれます」

 

私事で恐縮だが、春先、病院で定期検査をしたその夜に緊急の電話があった。

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CK(クレアチンキナーゼ)の値が異常値を示しているので大学病院を紹介するから至急来なさい言われた。翌日慌てて病院に行った。疑われる病名は「心筋梗塞」。心臓についてはこれまで「図々しい」とか「強心臓」とはいわれるが、病気の兆候はこれまでひとつもなかった。

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紹介状を書くから待合室で待っていなさいといわれ、肩を落としてドアを開けたその時、医者から「入山さん、もしかして激しい運動を最近したか」と問われ、「してません・・・そいえば筑波山に登ったくらいです」と説明したら、「ん?」 じゃあ、1週間後の検査を待ってから紹介状を書くと言われた。1週間の間、何か胸のあたりが痛むような気がした。夜中に目が覚めると頬をつねり生きていることを確認した。不正脈のように動悸が乱れているようにも感じた。入院するようになったらバンビーニの練習は中止となりそのまま解散か?と不安になった。

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 1週間後CK値は正常に戻っていた。CK値は心臓だけでなく激しい運動をした後の筋肉疲労でも高まるという。そういえば心臓も筋肉の一種だ。結局春合宿の筑波山登山が私にとって厳しい運動だったようだ。結果がわかると胸の痛みも動悸も感じなくなった。

このように「かかりつけ医」は異常を見つけたり、病気の予想をアドバイスするなど大げさになる前に対処してくれる。

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バンビーニの私の役割も「かかりつけ医」と心得ている。ただし、こちらは病気を見つける病院ではない。長所や才能を見つける診療所である。発芽させることを念頭に置き、開花は中学や高校の先生にお任せすることにしている。これはかかりつけ医が専門的病気については大学病院に紹介状を書くのと同じように、専門的練習は中学の先生たちにお任せしている。また、思春期になったこども達や人生設計の入口にいるこどもたちを相手にするのは荷が重い。オリンピック選手を育てたい気持ちはあるが、クラブ活動がある中学生以上のこどもたちに中途半端な指導は躊躇する。

かかりつけ医である私の使命は才能を見つけることにある。才能は誰にでもある。ただ、それを見つけることが難しい。外形的に足の長い身長の高いこどもは有利である。誰もがその才能を認めるからだ。

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問題はそうではないこどもたちである。人に負けたくない気持ちが強いこどもたちおよび言われたことは全部やり遂げる意志力がある子は、形態的特徴以上にすぐれた才能だと思う。これがないと練習をさぼったり楽な競技に行ってしまう。走る際にイヤイヤ走るか、トイレに逃げ込むか、怪我を理由にするかなど、さりげない態度も観察し心理面でも指導していかなければならない。心理的な面を無視してもいいこども達ばかりなら、日本陸連で「チャンピオンへの道」と称した指導書を書けば、皆強くなるはずだ。

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「かかりつけ医」のポイントは病気がどこにあるかを探す観察力である。医者が病気の因子を、採血や検尿、レントゲン、超音波などで探すのとおなじように、100m、1000mや幅跳びなどの記録は採血であり、新体力テストの結果はレントゲンに、練習態度は超音波による探索に相当するものと考える。このようなデーターからこどもの才能を見つけて、それにあった種目を推奨し練習させて中学に上げるのが、私のような「陸上競技のかかりつけ医」の役割である。

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第256回「リーダー論」(2023年11月19日)

今の学童にはリーダーらしき者が2人かいる。

K男の場合

以前は外遊びのこどもの2/3が参加したドッヂボールをやりたがる。2年生なのだが仕切りたがるが、その仕切り方に問題がある。ルールを自分流に変えてしまうのだ。

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自分が当たると“3キ“までOK(3回までは外野にいかないでいい。4回当たったら外野に出るという意味)。こどもに言葉の由来を聞いても「知らない」という。勝手に推測すると”き“というのは”期“であって”1期=いちご=生まれてから死ぬまでの一生“を示しているようだ。3回生き返るというからこの字を意味しているのか?あくまで大人の推測に過ぎないが。こどもの世界では言葉というのは意味が通じればいい。決して言霊(ことだま)である必要はない。

頭に当たれば「頭は当ててはいけない箇所だから当たってもセーフ」と言い、そうでないときは「センデ(投げたこどもがセンデ=線を出たこと)だからセーフ」と主張し、当たったことを認めない。

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こんな風にルールを変えるから、みんなはボールをかわすより自分から頭を下げて頭から当たりに行く。線を出たかどうかはこどもの足でコートを描いているから、時間が経つにつれて線が消え行く。出たか出ないかは、VTRで確認しない限りよくわからない。その場合K男のように強く主張したこどもが勝つ。そりゃあないだろうと、バンビーニにある古いマーカーを寄付した。

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味方が自分にボールをよこさないと強く怒る。「ねえー」「ちょっとー」外野に出たときはさらに大変で、「自分にボールをよこせ」とそれは右翼の街宣車よりうるさい。

この状況は毎回変わらないから、1人、2人とこどもが段々離れていく。悪いことに本人はそのことに気づかないから、「僕のチームに来たい人!」とドッヂボールを始めるときにどうどうと募集する。誰も手を上げない。でもこういう子はめげない。「遠慮しなくてもいいよ。皆、僕のチームに来たいでしょうから、S君、R子ちゃん・・・は僕のチームね」みんなあからさまに嫌な顔をしているのにK男には満面の笑みをたたえているように見えるらしい。

Y男の場合

普通に話せばいいところ大きい声で話す。「ここは道場ではない」といつも叱っているが懲りない。マネージャーの話に相槌を打つが的外れで、そのうちマネージャーが「Y男くん、ちょっと黙ってて」というくらいだ。

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仕切りたがるが、まとめる力がないため、前に進まない。おやつの順番を決めるのにどういうやり方にするか自分たちで決めなさい(学年別じゃんけんかお誕生日別じゃんけんか、先生じゃんけんかなど)というと必ずY男が仕切る。室内ではY男が1年上のためK男はしゃしゃり出れない。

ドッヂボールでY男が出てこないのは、本人運動神経のない子で、ボールが投げられないからだ。だからドッヂボールには参加しない。

「多数決で決めよう」といって決をとるが、記憶力が悪いので2つ前の手をあげたグループの数を覚えていない。よって、混乱する。また、K男のように強引さがないので途中で妥協してしまう。だから、厳密には多数決になっていない。K男のように決していい判断とは思えなくても“決める”ことは必要だ。

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最近のこどもはゲームの普及もあり、同じ学年のしかも数人としか遊ばない傾向にある。この状況ではこどもがたくましく育つのは難しい。その点学童は異学年の集団であり、自然とリーダー養成教室となる。だから、学童にはそれなりのルールが存在し、またリーダーの資格としては、「グループの秩序を保ち、グループの秩序に従わせる責任があり、何よりもグループからの信頼があること」である。

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その点でこれまで見てきたリーダーの中では、ヒカルという男の子がピカ一だった。

彼はもう中学2年生になった。

学童にいたときは、みんなで遊ぶことを好み、すべてに声をかける。ボールを投げてない子にはボールをあげる。トラブルがあると必ず仲裁に入り2人の話を聞く。1分もしないうちに裁きを下す。まわりがほとんど納得する裁きなので感心する。相手に対する好き嫌いではなく、どちらが今ある事態を起こしたのかを調べてから決断を下している。

このようにこどものうちからリーダーの資格が養われていく。ヒカルの行動を見ていた子どもは“引き継ぎ”こそなかったが、善きリーダーとなった。しかし彼らは学童にはもういない。

こどもの世界は非連続性の連続だ。いま理想的なリーダーがいなくても来年現れるかもしれないし、数年後かもしれない。

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第255回「もてる男とは」(2023年11月12日)

子供の頃はスポーツが出来る男の子は人気があった。これが社会に出ると徐々に学力(年収)に負けていく。入社したての頃、美人で頭のいい女性が運動もできず外見上もすぐれているとは思えない彼氏とつきあっていた。なぜ私ではなかったのか?定年間際になって彼女の賢さが分かった。彼氏は社長になっていた。

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では何故小学生時代はスポーツのできる男の子がもてたのだろうか?独断と偏見で考えた。

①小学生のうちは、学力についての優劣は曖昧な基準しかない。

1.小学校には偏差値がない。中間期末テストもなければ校内順位もない。だから、誰が頭がいいかどうかは"なんとなく"としてしか判断できない。小学生では頭がいいかどうかは大雑把なカテゴリーに入ってしまう。

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2.はっきりとした基準、「ホームラン」か「三振」か、ということで野球は能力の優劣がわかってしまう。ヒットで比較すると、見た目は比較がこれまた曖昧になってしまうが、陸上競技の場合ははっきりしている。速いか遅いかである。運動会のリレーで最後にライバルを抜いて1位になったものがヒーローとなる。

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②小学生は"大人の社会"をまだ知らない。

スポーツ選手は実績を残せばそれに比例して年俸が上がる。しかし、一般サラリーマンより多額のお金をもらえる選手は少ない。普通の選手は大人になれば自分の実力を冷静に考えられるようになり、選手生命に終止符を打ち、一般社会人になることを決意する日が必ず来る。

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しかし、こどもたちはそのような事実を知らない。夢追い人がこどもの本来の姿だから、卒業アルバムに“オリンピック選手になってマラソンで金メダルを取る”、"大谷翔平選手のようなプロ野球選手になる"と平気で書けるのだ。

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通常自分の実力を知るのは高校生になってからだ。

私は高校生の時800mでは速い方だった。3年生になると新1年生が入ってきたが、1m88の長身のYと練習をして身に染みたことがある。Yは背が高いだけでなく足が長い。だから走ると1歩1歩差が広がってしまう。これでは全くかなわない。見当違いにも、両親を恨んだ。

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野球ではPL学園に清原と桑田が入ってきたとき、PL学園の同級生だけでなく監督、上級生も度肝を抜かれたようだ。清原の遠くへ飛ばすパワーと桑田の伸びるボールは超高校級と言われた。勝負強さもあって3年間甲子園を沸かした。清原はもともとピッチャーであったが、桑田の伸びるボールを見て投手をあきらめたという。他の選手は2人を見てプロ野球選手をあきらめた。

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上には上がいる。

この春足立区の大会に参加した。その際この小論に「ブラックスワン」に出会ったようだと書いた(第222回「水は方円の器に従う」)。1000mを2分47秒で走る小学生を2人も見たのだ。それこそ清原・桑田に出会った中村監督のようだった。

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大雑把に3分を切るのを目標としていた私の指導方法などは片隅に吹っ飛んだ。2分47秒で走り抜ける選手がいるという事実が目の前に現れたのだ。

ウサイン・ボルトの9秒58の記録を目の前で見たとしたら、体中に電気が走ることだろう。

一方、こどもたちは2分47秒の記録を出した選手のことは意に介していない。自分も努力すればこの記録を出せると思っている。私が驚いている姿を見て「今度は僕が驚かせてあげるよ」とばかり練習に励んでいる。

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こどもの世界は、今でもスポーツに優れたこどもがもてる。「〇〇君はすごく速くてかっこいい」とか「すごい記録だね」言われれば、ますます努力し遅い子との差はどんどん広がっていく。女子は強くてたくましい男子にあこがれるものだ。

我々コーチは一生こどもと歩むわけではない。バンビーニではせいぜい中学生までだ。しかし、この時期までなら冷静に自分を見つめる必要はないだろう。夢追い人のままでいいのではないか。人生で夢をいだくことは今しかないかもしれない。

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私のような歳になると明日が今日より悪くならなければいいと思っている。健康についても生活についても。

 

こどもには夢を抱かせ夢を追いかけさせるべきだ。そのうち才能が顕在化すれば、まずはオリンピックに出る第1歩となる。それがコーチの見る唯一の夢である。

 

第254回「狩りの仕方」(2023年11月5日)

イエローストンなどのよく見通しのきく場所で目撃されるオオカミの狩りは、主に以下のようなやり方で行われる。

1.エルクの群れが固まっている場所にオオカミの群れが姿を現す。

2.オオカミの群れがゆるやかに走り出し、エルクを追い立てる。まるで牧羊犬が羊を追うように。これをテストランと言う。

3.その中から、ケガをしている、弱っている、年老いている、幼い個体に狙いをつけ、エルクの群れから切りはなすように誘導する。

4.走るエルクに並走し、一頭が蹴られる危険性の少ない肩に咬みつき、強力なアゴの力でぶら下がり、体重をかけて引きずり倒す。

5.別の一頭がエルクの喉や鼻づらに食らいつき、窒息させる。(人間以外の動物は口呼吸できない)

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ライオンの場合、狩りをするのはメスである。大型の草食動物であるキリンを倒すときはオスの手助けを依頼することがあるが、ほとんどはメスだけで行う。

まず獲物を見つけることから狩りが始まる。そして、獲物を見つけたら獲物に飛び掛かるポイントを起点に扇型に散らばる。最初に攻撃する1頭は気配を消すために草の中へ隠れて、少しずつ獲物に近付いていく。30mくらいに近づき、獲物が油断している隙に走り出し、他のライオンはその獲物が逃げるコースに待ち伏せして、獲物に襲い掛かるのである。

獲物に対しては、強力なパンチや噛みつきを繰り返して、逃げる回るところを引きずり倒し、そこに追い打ちをかけるように攻撃をして捕らえるのである。

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人間以外の霊長類では、チンパンジーがアカコロブスなどのサルや、ブルーダイカー、リス、ブッシュバックやイボイノシシの子供など、小型の哺乳類を狩って食べる。

 タンザニアにあるマハレ国立公園で最も頻繁に獲物になるのはアカコロブスである。このサルは木の葉を主食としたオナガザル科のサルで、普通は30頭くらいの群れをつくっている。チンパンジーは数頭で囲むように木の上のコロブスを追いつめ、木から落ちたところを下で待ち伏せていたものが捕らえるやり方である。

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バンビーニの狩りの仕方は「初めから飛ばせ!」である。強化指定記録突破を目的としているのであるから、ライバルは他のクラブのこどもたちではない。昨日までの自分なのだ。獲物は強化指定記録なのだから、最初から飛ばさなくては獲物を捕らえることはできない。もたもたすれば練習でいつも勝っている仲間に負ける。ペースがわからなくても仲間と一緒に走ればいい。同じ組には必ず仲間がいる。調子が悪い時はお互い抜きつ抜かれつ励ましながら走ればいい。

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昨年、彩の国クラブ交流大会で得点を稼いでクラブ順位をあげようなどと欲をかき、1位狙いで4,5位に待機してラスト200mからのスパートをかける戦法を指示した。しかし、それは他のクラブのこどもたちも戸惑っていたようにバンビーニらしくなかったのだ。結果的に狙った得点には遠く及ばなかったし、いつもの記録も出せなかった。うちのこどもたちに悪いことをしてしまった。

その時の私の落ち込む姿を家内が密かに携帯で撮っていた。

「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、武田信玄に負けた三方ヶ原の合戦の後、家康はこの敗戦を肝に銘ずるため、その姿を描かせた肖像画だ。慢心の自戒として生涯座右を離さなかった。私も「初めから飛ばせ!」の戦法の変更を二度としないよう、家康と同じように家内の撮った写真を机の上に飾っている。

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オオカミはオオカミの、ライオンにはライオンの狩りの仕方がある。それが自分たちの種にあった戦法であり、先祖からの教えであって、絶滅危惧種になるまでそれを変えることはないだろう。

バンビーニは行けるところまで行ってダメなら練習を積んでダメになるポイントを段々伸ばしていくというやり方で大会に参加してきた。これがバンビーニの“強化指定記録という獲物”の狩り方であった。このやり方を変えようなんて・・・私はこのやり方を二度と変更することはない。

 

 

第253回「君たちは生き残れるか」(2023年10月29日)

学童には中国人が4人、ブラジル人が2人、ベトナム人が1人通っている。国際色豊かだが、外見上日本人との見分けがつかない。皆日本語が上手い。1人を除いて・・・

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ベトナムのN男は入会したての頃は日本語がうまかった。気づくと夏休みあたりから言葉がよくわからなくなってきた。話しかけてくる時はわかるが、主張したい場合に「〇÷△■」になってくる。つまり日本語が下手になった。

これは1人遊びをしているせいだと思う。5月ごろから1人遊びが多くなった。聞くことは問題ない。クイズをしてもすぐ手を挙げる。

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しかし、これがほとんどが当たらない。

たまに当たることがあるが、今度はこどもの非融通性の壁に当たる。

「夏でもないのに夏の食べ物はな~に?」「ココナツ」と答えているのに出題者は「違う」という。続けて手を挙げて「ピーナツ」と言う。それでも「違う」というので、私が「あっているんじゃないか?」と助け船をだすが、出題の本の正解が「ドーナツ」だからその他はすべて不正解となる。

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こどもの融通のない残酷な対応だ。めげずに何度も手を挙げるが、答えはどんどん正解から離れていく。いつまでたっても当たらないから出題者はこの子以外手を挙げていなくとも当てなくなる。このようなケースも1人遊びに走らせる要因で負のスパイラルとなる。

一方ほとんどのこどもはいつも流暢な日本語を使うから日本人との区別ができない。苗字が日本名だとさらにわからない。

中国人のS男はベトナム人のN男と違ってどんどん会話に入ってくる。何にでも顔を出す。遊びの時間にはすべてのグループに顔を出して遊ぶ。しかも中心に座る。トランプでもオセロでもカードゲームでも何でもこなす。いいところ取りしてすぐ他にいくから後片付けをしない。「片づけは遊び時間の終わる時に遊んでいたもの」という暗黙のルールがある。だから、S男の最後の遊びはトランプだ。一番片付けるのが簡単だからだ。シルバニアのような片づけが面倒なものは最初にする。このように要領がいい。

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マネージャーが「入山先生、S男は将来出世しますかね。今のうちから仲よくしておいた方がいいですかね」と聞いて来た。

私は間髪を入れず「やめておいた方がいいでしょう。先生は世渡りのうまいS男を利用しようと思っているのでしょうが、その前に先生の財産すべてを合法的に吸い取られますよ。遠く離れていた方がいいと思います」

「やはりそうですか、くわばら、くわばら」

ブラジルの子は姉弟だが、国民性からか明るい。お姉ちゃんは3年生だが学童のリーダー、弟は1年生だがゲームの達人でオートリオやオセロでは他のこどもは勝てない。オートリオでは私が負けるときがある。オートリオは2人で遊ぶときは絶対に先行が有利であることにいち早く気づいたこどもである。

外国のこどもたちは勉強も熱心で、さきほどのベトナムの子は6年生までの漢字を書ける。中国人のS男は英語も学んでいる。ブラジル人の男の子は掛け算をやっている。

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 一方我が同胞に目を向けると気になることがある。

まずは勉強時間中ボーとすごしているこどもが3名ほどいる。1日2回勉強時間があるが、両方ともやらない。1年前までは強情で感情の起伏が激しく問題児だったR男はいつの間にかあきらめられたようで、マネージャーも人に迷惑をかけない間はもう何も言わなくなった。何しろ学童は「安全安心を提供する場」だからそれ以外の目的はない。崇高な教育方針はいらないという本分を貫いている。

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おやつを食べる時間も長い子が数人いる。かむ力が弱いからか、口に入れる量が少ないからか。7人の外国の子は概して早く、おかわりももらえる。同胞たちは時間切れでおかわりがもらえない時がある。食に対する貪欲さがないのだ。いつもお腹が減っていた時代とは違う。

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7人を見て判断するのは早計だが、このような状態で中国14億人、ベトナム1億人、ブラジル2億人もいる国々に勝てるのだろうか?

日本はかなり前から飽食の時代に入った。お弁当やおやつを楽しく積極的に食べようとしていない。もっとおいしいものを食べたいという気持ちも強くないようだ。校内にあるイチジクやビワは誰も取って食べない。ご褒美においしいお店につれていってもらうより、カードを買ってもらう方がいいらしい。

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物に名前をかかないから忘れ物をしたこどもを探し当てるのが大変だ。それよりも、「忘れ物ありますか?」と聞いてくるこどもがほとんどいないのが不思議だ。

さらに日本では飽食の時代だけでなく、飽知の時代にも入っている。あくなき知識の探求心はなくなり、知識とは携帯でグーグルを検索すればいいという雰囲気になっている。知識が脳で咀嚼されることは少なくなった。

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こどもたちは初めての出来事、初めての問題に戸惑うことが多く、リーダーシップの面でも、やさしい日本のこどもたちがたくましい国のこどもたちにリードされている。こどもたちが厳しい競争社会、国際社会で生き残れるのだろうか、とても不安な気持ちになってくる。

 

第252回「種の起源」(2023年10月22日)

ダーウィンは著書「種の起源」の中に、「生き残る種とは、最も強いものでも最も賢いものでもなく、最も変化に適応したものだ」と書いている。

つまり、生物学や進化論でいう「進化」とは、単にその環境に適した形に変化することであって、「進化した後の生物がそれより前の生物より優れている」という意味ではない。進化=進歩でも、進化=発達でもないのだ。ただ「生き残れる」という意味でしかない。

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バンビーニに入ってくるこどもたちは決して身体的にすぐれている(身長が高い、足が長い)わけではない。バンビーニの練習をうまくこなしているだけだといえる。

バンビーニは

1. 我々の目的は大袈裟に言えば、人類誕生からおこなってきた狩りのための“走る遺伝子”を呼び覚ますことだ。走らずとも狩りができるようになってから4000年しか経っていない。

 人類誕生から200万年のたかだか0.002%の時間だ。その遺伝子はなくなっていない。必ずこどもたちのどこかに潜んでいるはずだ。

2. 強化指定選手を目標としているのだから、走法はただひとつ飛び出して積極的にタイムを狙うこと

3. ライバルは他のクラブの選手ではなく、昨日の自分である。今日の目的は昨日の自分より積極的な自分に変えることである。

という練習環境にある。

このような環境に合わせられる選手が、長距離選手として優れた選手になれる。

 

そもそも人類は自然界の中では、とても弱い動物なのだ。

人類はゴリラには筋力で勝てないし、先日天王寺動物園を脱走したチンパンジーですら腕の筋力は人類の数倍以上ある。

また、足の速さも他の動物に比べて遅く、ウサインボルトは時速38キロで走るが、カバは時速40キロ、チーターは120キロで走る。

つまり、自然界の中では、筋力も足の速さも他の動物よりも劣るため、獲物を捕らえることができない。そこで人類が生き残るために進化させたのが「長く走る能力(持久力)」だった。

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人類以外の動物は速く走ることはできても、長く走り続けることはできない。

動物は、長時間走ると自分自身の発生した熱をコントロールすることができなくなってしまうからだ。そのため、早く走った後は必ず木陰などで休み体の熱を下げる。しかし、人類は他の動物のように皮膚が毛で覆われておらず、肌がむき出しの状態になっていて、200万~500万ある汗腺から汗と一緒に熱を放出するという冷却システムを持っている。だから、人類は走りながら汗を出し、体に熱がこもらないようにし、長く走り続けることができる。(第226回「太陽の子」を参照)

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「狩り」の方法はとにかく標的を決めたら、集団で足跡を辿って追いかけ続け、獲物を休ませず、体内の熱を上昇させ動けなくなったところを棒や石で仕留めるという「持久狩猟」であった。

だから人類には長い距離を走る能力に長けている遺伝子があった。文明が発達して長く走ることが必要ではなくなったため、その遺伝子はどこかに追いやられているがなくなったわけではない。

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普通の子の集団である「学童のこども達」の多くは200mを走るのが精いっぱいである。それも150mくらいから極端に遅くなるか歩いてしまう。彼らと比較すると、練習で1000mを何本も走るバンビーニの低学年クラスははた目には異常に見える。1年生のK男はまだ他の子より遅いが、決められた本数を文句を言わずに淡々と走り切る。I男はハンターのような目で走り、こども達の中で一番200万年前の人類に近い。彼らはゴールデンエイジ絶対主義の今日において異端である低学年運動開始主義の仮説を持つコーチ(詳細は第200回「H2O」を参照)の指導という環境に適応している。

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記録狙いだから最初から飛び出す練習をしている。しかし、高学年の何人かは性格の優しさが邪魔して前に飛び出せない。その性格を変えようとしないとバンビーニと言う環境で生き残れない。

残念ながら先祖の遺伝子を必然的に引き出せる方法はまだない。1000m3分を切ったA男の走りはA男にしかできないが、A男の練習態度を見たり、決められたタイムで還ってくる練習を繰り返すことで、自らを変える力を蓄えてくる。自らを変えようとするうちに隠れていた走る遺伝子が顕在化する。

遺伝子のコピーミス(突然変異)は進化のために役に立つかどうかは長い年月をかけないとわからない。しかし、眠っていた「走る遺伝子」を覚醒させることは即役に立つ。なぜなら過去の人類の歴史が証明しているからだ。しかも、遺伝子のコピーミスは偶然を待たなければならないが、走る遺伝子は練習によって揺り起こすことができる。

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春先不調で心配させたA男は持って生まれた形質(素質)が環境(バンビーニ)に合っていたから、生き残った。そこに方向性(強化指定選手になろうという目的)を与えたのは、適合した環境なのだ。方向性がわかれば進化はより早まると言える。

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第251回「努力とは」(2023年10月15日)

昭和20年~30年代、日本は戦後の復興のために頑張ろうとする強い意志とエネルギーがあった。歌謡曲は心弾むものが多く、植木等の映画「サラリーマンシリーズ」は明るく楽しい時代を象徴していた。青春ものも楽しく、何にでもなれる気がした。明日は今日より楽しいであろうと、夢と希望が日本を覆っていた。

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戦後の日本経済はそれまで国家予算の70%以上を占めていた国防予算のほとんどがインフラ投資に向けられた。その経済政策によって急速に復興し、新幹線が走り始め、高速道路が全国に張り巡らされ、家庭ではTV、冷蔵庫、洗濯機という三種の神器が揃うようになると、いつの間にか“努力”だとか“我慢”だとかは“昭和の言葉”という一言でかたづけられてしまった。

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辛抱とか我慢が国民に理解されたのは、NHK朝ドラの「おしん」が最後だったような気がする。東京オリンピックの女子バレーボールを金メダルに導いた大松博文監督の「為せば成る」(強い意志をもって努力すれば願いはかなうという意味)という言葉は忘却の彼方にある。今では私ですら、「ラストスパートは理屈ではない“根性”だ」と言うのに、一瞬ためらってしまう。

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私が大会の日こどもたちに語るとき目の奥には炎が上がっている。こどもが消極的レースをすると体がワナワナと震えてしまう。たくさん練習してきた子がベストを出した時は目から涙がこぼれてしまう。こどもたちはその私の体の変化には気づいていないようだ。その原点はすべて「巨人の星」というスポコン漫画にたどり着くのだが、彼らにはその感覚がわからない。いや、保護者ですら理解できないのかもしれない。

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フロイトは「人は無意識のうちに快楽を求め苦痛を避ける傾向にある(快楽原則)」と唱えた。その人間の行動性向に逆らうように、厳しい練習に耐えて走るバンビーニのこどもたちはすごいと思う。

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しかし、彼ら自身は猛烈な努力をしているとは思っていない。練習とはこういうものであって、速くなれば1組で練習できると考えているようだ。大人が思っているほど苦痛ではないのかもしれない。幸田露伴の「努力論」を地で行っているかのようだ。

幸田露伴は「努力をしているのだということを忘れて努力をすることが真の努力である」と述べている。すなわち、自分が努力していると思っている間はまだ真の努力ではない。努力が生活化するまで昇華して初めて真の努力に達するとした。

 

今回最後の1000m強化指定大会であった小学生クラブ交流大会でH男とE男の2人は突破できなかった。彼らはこの1年間2時間の練習を週3回こなし、毎日私の作った自主トレのメニューをこなした。おそらく誰もやりたくないくらいの量と質を課したのである。

彼らが入会した時運動能力は5段階評価で3ランクの下位であったので、彼ら自身も到底1000mで記録を狙えるとは思っていなかったろう。だが、保護者や本人の努力によってあと1歩のところまで来た。入会1年、2年でここまできたのは見事と言えるだろう。

本人たちに成り代わって弁解すれば、H男は誕生日が1月20日、E男にいたっては3月14日であった。1年も月齢で不利であったということだ。小学生の運動能力についてはこの月齢が運動成績を大きく左右することがある(大人になれば月齢のハンディはなくなる)。

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弱々し振る舞いをしたら叱られ羽目を外せば頭を叩かれ、肉体以上に精神的にくたびれたろう。よく怪我もなく反抗することもなくついてきたと思う。

アップル共同創業者スティーブ・ジョブズも言っている。

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている」と 

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泣くな、二人よ。

バンビーニでの経験がこれから挑戦する人生にきっと役に立つ。中学校でも陸上競技をするなら強化指定獲得のチャンスは3年ある。「辛抱」して「我慢」して練習に励むといい。(ただ、小学生の君たちには神様はもう1度チャンスをくださっている。11月12日のチャレンジカップ(600m)だ。しかし、標準記録が1000m以上に厳しい。あと1ヶ月、艱難辛苦汝を玉にす、と思い練習しなさい。)

 

 

2024.03.19 Tuesday